第1話 「怪物からの脱走」
なるべく暑すぎず、寒すぎないくらいの気候が良い。
春と秋のように、20度~25度くらいの温度で、桜や紅葉に日々を彩ってもらいながら過ごしたい。
できれば、私の周りでは花粉が飛ばない世界であってほしい。
人間関係も、熱すぎず、冷たすぎずの適温が良いのかもしれない。
今思えば彼は、飴と鞭を変幻自在に使いこなす人物だった。
大学生時代のサークルの先輩だった彼は、私に素敵なことも残酷なことも経験させてくれた。
普段は温厚で、包容力のある性格に何度も救われてきただろうか。
悩みだって聞いてくれるし、全身で受け止めてくれる。
一方、彼は怪物のような性格に、不定期で姿を変える。
まるで、猛暑日が連日続く夏本番に、巨大な台風が迫るような光景だった。
幸せな日常は、いとも簡単に崩れ去るのだ。
予約をしていた心斎橋のカフェで雑談をしたときに「サプライズ」と言ってプレゼントを渡してくれたり、共通の趣味でもある書店巡りをしたり、ランチを終えた後にヘップファイブの観覧車に揺られてみたり、意味もなく中之島公園を歩きながら景色を一緒に眺めたり。順序はよく覚えていないけど、彼の「光」の面だけを視界に捉えながら、着々と時間は流れていった気がする。
ここまでは、順調に誕生日デートが進んでいたのだ。
時刻は14時を少し過ぎた頃。
中之島公園は堂島川と土佐掘川の中州にある細長い公園で、季節によってはバラや桜が園内に広く咲き誇っている。芝生の上でピクニックを楽しんだり、川辺のカフェなどで自然を感じながら、のんびりと過ごすことができる。もちろん、夜のイルミネーションは絶景である。
中之島から橋を1本渡ってしまえば、都会らしい混雑で溢れるだけに、まさに都会のオアシスともいえる比較的静かな場所だった。
芝生スペースの一角に着座していた際に、鞄から指輪を取り出して、彼から受け取ったプロポーズ。
運が悪く、彼が指輪の箱をちょうど差し出した際に、冷酷なほどに豪雨が降り始めた。
慌てた2人は、走って難波(なにわ)橋の下に避難した。
辺りに鳴り響く雷の音が彼を「怪物」に変えてしまったのか、次第に不機嫌な表情を見せる。
交際期間は2年半。
学生時代にサークルで出会ったときから数えると、約4年の付き合いになる。
実のところ、彼が求婚を申し出る可能性は充分にあると思っていた。
同居に備えて家具や家電の話をするようになったり、彼の両親への挨拶を兼ねて実家の農園の手伝いに誘われたり。
将来をより考えた思考になり、仕事で役を貰ったことを心から喜んでいたようだった。
きっと、指輪のサイズは、何らかのタイミングで計測されていたのだろう。
ある意味で、今後の展開を匂わせる証拠は整っていたのだ。
残念なことに、「怪物」の振る舞いには、何度も心が揺れに揺られて、気分が悪くなることも次第に増えてきた。
振り回され続けるのも嫌だけど、逃げると少し後悔しそうな気もしたから。
逃げる勇気があったとしても、今後何をされるか分からない恐怖もあった。
でも、中之島公園であの雷雨に遭ったときに、ふと確信することができた。
一生を共にする相手として彼を選ぶと、私はまた無理をしてしまうかもしれないと。
1789年のフランス人権宣言には、「自由とは他人を傷つけない限り何をしてもいい」という趣旨の文言が記載されている。
私は、彼の生き方に縛られて生きるべきではないのだ。
彼に合わせることなく、自分らしく力強く生きていけばいいのだ。
勇気を出して彼に永遠の別れを告げると、私は難波橋を南へ渡り、地下の駅構内へと駆け込んでいった。
後ろを振り返ることもなく、ただ無心に走り続けた。
無心であるがために、豪雨が降り続いていたことに気がついたのは、京阪電車の北浜駅の改札が見え始めたときだった。ICカードを取り出そうとしたときに初めて視線を下に向けたからだった。
誕生日デートの衣装がずぶぬれになり、整えていたはずの髪も雑になってしまった。
例の豪雨は想定外だったので、大きなタオルや傘などの雨具を持参しておらず、現時点でできそうな対処は無さそうだった。
それよりも、彼が追ってきているのではという恐れも抱いたので、私は思わず改札にICカードをかざしてホーム階に駆け下りた。
このまま瑞急線を利用して帰るとなると、京阪で淀屋橋まで進み、御堂筋線に乗り換えて梅田。1駅ずつの理由で上手く繋いで行ける。京阪ではなく堺筋線を使用していれば、南森町で谷町線に乗り換えて、そのまま直通する瑞急に乗れば良さそう。
しかし、瑞急線で乗車するのは特急である。それなら、始発駅の梅田から座っていく方が心も休まる。
「まもなく、2番線に淀屋橋行きが参ります」
乗車する予定の電車の接近放送が流れる。京都方面の京阪特急とは異なり、停車駅や種別案内がない簡易的な放送内容だった。何しろ、次駅が終点なのだから。
ホームに現れたのは、緑色と白色の一般車両だった。京橋や天満橋で大量に利用客が下車したのだろうか、ロングシートには3分の2程度の着席だった。その割に立ち客もいて、短距離利用も少しだけ匂わせていた。
14時台も後半に差し掛かり、15時台以降に増える学生の通学需要や沿線の通勤輸送に向けて、少しずつ慌ただしくなっていくようだった。時刻表のパターンダイヤを眺めては、何かの事情で数分ほどずれてしまう列車が愛おしい。基本的には、ラッシュと日中の間の移行時間帯に多く見られる。微調整のために色々動かさないと辻褄がとれない、アレである。対岸の阪急京都線には、観光特急「京とれいん」が2時間に1本運行されている。この観光特急が走ることで、前後の特急や準急の運行時刻が微妙にずれる。
パターンダイヤのように習慣づけられた日々の生活で、少しだけ場を乱すような存在になってみたいものである。きっと、今がそのときなのかもしれない。「人生」号のダイヤ移行期だ。
普通と名乗る列車は、僅か1分ほどで終着駅に到着する。現在の淀屋橋駅は、島式ホーム1面3線を有しながら、日中は贅沢に先端部の1番線・2番線を使用していない。ロープで隔てられた空間は灯がついておらず、「列車が通過します」という音声とメロディが、列車のがたんごとんと共鳴していた。
縦列駐車を行う形で線路を共有する1番線を通り過ぎて4番線に入線した各駅停車は、多くの利用客に迎えられているようだった。昨日よりも、スマホを見ている人が増えた気がする。みんな、下ばかりを向いている。もっと前を向いていきなよ、と他人に向けたエールを私の中に押し込めた。
先頭車両を後にした私は、人の波に押されながら階段をゆっくりと上っていく。この出口から降りた大半の人々は、そのまま左折して御堂筋線の改札へと向かっていく。工場のベルトコンベヤーのようなエスカレーターから、量産型のサラリーマンが次々とホーム階から上がってくる。彼らを見ながら、私はホームへの階段を下り始める。
駆け込み乗車を試みようとした女性を見送るように、そのまま箕面萱野行きが淀屋橋駅から発っていく。ホームから列車の姿が完全に消えたときに、発車標に映る新大阪行きの文字。悪名高き中津行きは、近年減少傾向にあるらしい。天王寺始発の小運転なので、先ほどより空いているはずだろう、と根拠のない希望を脳裏に抱く。
日中は、4分おきに10両編成が都心部を走る御堂筋線。大阪の大動脈路線だけあり、常に人の流れが絶えない。ホームドアの後ろに立って待っている間、私は久しぶりにスマートフォンの画面を眺めた。
案の定、彼からの不在着信が7、8件ほど。未読メッセージはわずか十数件だが、きっと、長文と大量のスタンプが並んでいるのだろう。いつものように、また何か言葉を並べているはずだ。どこか遠くの方で、怪物は吠えてくれたらいい。住むべき世界で幸せになってくれたなら、それで良いのだ。
私は、メッセージに既読をつけることなく、連絡先をブロックした。そして、追い打ちをかけるように、彼の名前をメッセージアプリから完全に削除した。
端末の速度が早いのか、膨大だったはずの会話データも、ものの数十秒で消え去っていった。彼との日々が数十秒で消えていく様に、何か名残惜しい気持ちも抱きかけた。ふと、もうこれで終わりなのだ、と気づいたときに、後ろを振り返ると、既に10人弱もの人々が整列して並んでいた。
「2番線に新大阪行きが到着します。危険ですので、黄色い点字ブロックの後ろまでお下がりください」
聞き馴染みのある接近音が辺りに響く。
4分間隔とはいえ、停車時間を考えると、もっと短い間隔で電車の姿を捉えることができる。
新大阪行きの御堂筋線に乗車して、梅田で瑞急に乗り換えて、どこか遠くへ行けたなら、それで良い。
今日は遠回りで帰ろう。
自宅の最寄駅は、明石を通り過ぎて数駅のところ。
遠回りになってもいいから、彼の知らない、遠いところにある別の世界へと飛んでいきたい。
学生時代は下宿生活だったし、今も昔も、彼を実家に呼んだことはない。
変なプライドで、私の出身地は「神戸だよ」と大嘘を貫いてきたので、特定されることもないだろう。
年賀状は、親戚と同性の親友以外は書いていないはずだから、彼に出した覚えは全くない。
職場の同僚や、今の親しい有人も、年越しにはメッセージを送り合う程度、という具合だ。
彼の連絡先は既に端末から削除してあるから、もう大丈夫だろう。
列車の接近音が静まり、いよいよ車内から利用客の群れが下車してきた。
量産型のサラリーマンは、先ほどの上りエスカレーターに向かって進んでいく。
きっと、それなりの高い社会的地位を確保して、それなりに充実した人生を歩んでいくのだろう。
淀屋橋駅で下車する人々の流れが止まったのを見るなり、私は並んでいた客を引き連れて、御堂筋線へと乗車した。
良いんだよ、自分が進んだ道ならそれで良いんだよ、と心に強く言い聞かせる。
列に並んでいた全ての人々が乗車を終え、扉が閉まる。
もう一度閉め直すこともなく順調に、列車は前へと出発進行を始めていく。
走り出す車両の揺れに、足が一瞬だけふらつく。
スマホを持っていない方の右手を慌てて上に伸ばし、つり革を掴んだ。
ふう、と一息入れて呼吸を整える。
再び視線をホームの方向に向けると、淀屋橋駅のホーム上についたばかりの彼らしき姿が見えた。
周辺の誰にも気づかれないくらいの小声で、私は「嘘……」と呟いていたらしい。
目線を合わせたくない、と思い、再び視線を左手のスマホに移す。
ホームらしき灯が消えた気がしたので、車両は淀屋橋駅から完全に脱出できたのだろう。
私が乗車した後の京阪線で向かってきたのか、北浜から地下道で淀屋橋まで来たのか、中之島公園沿いをそのまま西側へ歩いてきたのかは知らない。
顔だけでなく、身体的特徴や服装が、完全に一致していた。
少しだけ見えた表情は、数分前に駆け込み乗車を試みていた女性よりも、魂が抜けたような様子。
彼が家に帰る場合は私とは逆方向だから関係ないだろうと思ったが、実際に後をついてきている可能性も僅かにある。
最悪、私の4分後に彼が梅田駅のホームに降り立つ可能性もある。
どんな場合も想定して、常に複数のプランを持っておかなければならないと悟った。
アカウントのブロックに引き続き、SNSのアカウントを一旦非公開の設定に変更して、完全防衛を図る。
思ったことはなるべく吐き出しておきたいので、『こわいこわい』と短文の投稿を呟いておいた。