「深夜急行の夜」最終話


 第12話(最終話)「深夜急行の夜」 (第11話はこちら

 

 

 あれから、3年後。

 2020年7月の大阪では、今年も「天神祭」が催されていた。

 

 天神祭は日本三大祭の1つに数えられる大きな祭りで、特に本宮で行われる奉納花火はテレビ中継もあるなど、有名な行事とされている。

 

 しかし、今年は時世の関係もあり、規模を縮小しての実施となった。

 そのため、奉納花火をはじめとする多くの行事が中止に追い込まれた。

 

 必要最小限度の神事を、原則非公開の形で実施されるそうだ。

 

 本来であれば、明日の土曜日が本宮だったのに。

 一緒にその景色を観ようと思っていた人がいたのに。

 

 生憎、その人はまだ家に帰ってきていない。

 

 仕事だろうか。

 今日は金曜日の夜、時刻は20時前。

 

 大阪の出版社に勤務する彼女とは大学の文学部時代からの仲で、卒業後に同棲生活を始めて3年ほどが経っていた。

 

 僕の方は教育業界の仕事をしており、大学時代の経験を活かしながら、子供たちへの学習指導を行っている。

 

 テレビが置かれたテーブルの上には、『銀河鉄道の夜』の文庫本があり、その隣に小さな袋があった。

 それは、ずっと渡したかったのに、なかなか渡せていないものだ。

 

 あの本を見る度に、3年前の日々を思い出す。

 スマートフォンの待ち受け画像は、今も例の家族写真だった。

 

 不意にスマートフォンの画面を見つめる。

 

 漫画家のアシスタントをしていた父は、昨年にようやく自身としてのヒット作を出したそうだ。

 

 その漫画のタイトルは、『深夜急行の夜』。

 僕も発売開始時に書店で購入して読んだが、美しく繊細な物語だった。

 3年前に僕たち家族が経験した出来事だけでなく、母が生きていた頃の思い出が活き活きと描写されていて、見入ってしまった。

 

 今年の1月に一緒に母の墓参りへ行ったときに、作り立ての墓に向かって「俺、ついにヒット出したよ!」って絶叫していたよね、あの人。

 自分の父親なのに、何だか怖かったくらいだから。

 はっきりと覚えているよ、今もずっと。

 

 母は今頃、何をしているんだろう。

 深沢さん。

 

 元気に過ごしていますか。

 笑っていますか。

 美味しいものは食べてますか。

 

 僕は、深沢さんがくれた『銀河鉄道の夜』の文庫本を手にとった。

 本の奥付の上あたりに、彼女の字だろうかメモが書かれている。

 

『1002 0329』

 

 僕が初めて『銀河鉄道の夜』の文庫本を読み終えたときに発見した数字だったが、今の僕にはこの数字の意味が理解できた。

 

 10月2日は、父・高崎有悟の誕生日。

 そして3月29日は、僕の誕生日。

 

 家族の誕生日を本に書いておくことで、彼女が僕たちを大切にしてくれたことが読み取れる。

 生まれたばかりだった僕の誕生日がなかなか覚えられずに、一番好きだった本に書いて何度も見返すことで覚えたのだという。

 それでも、覚えて間もない頃にあの震災に遭って、母は亡くなってしまった。

 

 父が言うには、僕の誕生日の語呂合わせは「瑞急(みずきゅう)」だそうだ。

 どうして、その覚え方を母に教えなかったんだよ。

 そう言ってあげたいくらいだった。

 

 その時、スマートフォンの画面に通知が現れた。

 

『葛城菜緒 テレビ電話』

 

 僕は通知が表示された画面を操作し、テレビ電話に出た。

 

「もしもし、菜緒。どうしたん?」

「どうしたんやないって、真悟。これ見てみぃな!」

 

 画面の向こう側では、沢山の花火が打ち上がっているようだった。

 大阪の夜空には、色とりどりの花々が咲いている。

 周りの建物から判断すると、天神橋のあたりだろうか。

 

「めちゃくちゃ綺麗やな」

 僕がそう言った瞬間、花火の音が止まった。

 

「真悟、終わっちゃった……花火」

「えっ、本当にこれだけ?」

 

「せやで。医療関係で頑張ってくれている人たちに感謝を込めて、全国で花火を打ち上げるんやて。時間が20時からってのは聞いていたけど、まさか仕事場の近くで行われるなんて、思いもしなかったわ」

「そうか、場所はシークレットやったんやね」

 

「そうそう。一瞬でもええから、どうにかして、真悟と花火を観たくてさ」

「お互い仕事が忙しくて、観に行けなかったもんなあ、淀川の花火も、天神祭も、PLの花火も。初めて一緒に観る花火がリモートなんて、笑っちゃうよな」

 

「ほんまそれやで……でも、よかった。そうやって、真悟が喜んでくれてる顔が見られてさ。私は幸せもんだよ」

 

 僕はテレビの台を見ながら、言葉を詰まらせていた。

 視線の先には、結婚指輪が入った小さな袋が置いてあった。

 

 今じゃない、今じゃない。

 僕はそう思いながら、暗示をかけていた。

 

「――なあ、どうしたん、真悟。突然黙っちゃって。あ、そうか、なんか言いたいことあるんやろ?」

「違うて」

 

「せやろ、せやろ、絶対そうやわ」

 

「言うてみい」

 

 菜緒からそうやって急かされても、心の準備なんて出来ているわけなんかない。

 

「言わんかったら、晩御飯無しな」

「いや、それは要る。美味いもんは食べたいし」

 

「わかった、それなら言うてよ」

 

 深沢さんから受け取った、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の文庫本。

 それに書いてあった、「ほんとうのしあわせ」の正体が何となくわかった気がする。

 

 お母さん、上から見ていてください。

 僕は今から、めちゃくちゃ頑張ります。

 

「なあ、菜緒。大学で出会ってから、もう7年経つ。恋人になって、その後同棲を始めてから3年」

 

「どうしたん、突然昔のことを振り返りだして。頭打ったんか」

 

「大丈夫やで、いつも通りだよ――今まで菜緒と過ごしてきて、僕はかけがえのない日々を得てきました。一緒に色々な場所に旅行したり、たくさん遊んだり、笑ったり泣いたりしたよね。苦しい時もつらい時もあったけど、菜緒が居てくれたおかげで、強くなることができた気がするんだ。ありがとう」

 

「おお、こちらこそありがとうな。私も真悟が居てくれたから、ここまで楽しく過ごせたもん。本当に感謝してるよ」

 

「だからさ、これからも、僕と一緒に歩んでほしいんだ。僕には君が必要や、絶対に必要なんやから」

 

 僕は卓上から袋を持ち出して、小さな箱を開ける。

 それを画面の中の菜緒に向けて見せた。

 

「――僕と家族になってほしい。ずっと、ずっと、傍に居たいんや」

 

 すると、画面の中の景色が揺れる。

 菜緒が、スマートフォンを落としたのだろうか。

 

「どうした、どうしたんや、菜緒」

 

 ガサガサと音を立てながら、画面に映る景色が元通りに戻った。

 

 菜緒は、思わず顔を手で隠して泣いているようだった。

 

「嬉しくて泣いてるのよ、見たら分かるでしょ。いいから黙ってて!」

「はいはい」

 

 その後、数十秒の沈黙が流れた。

 僕と菜緒の両方が、人生の決断を受け入れるための時間だった。

 

 楽しい時、心は豊かになる。

 

 悲しい時、人は優しくなれる。

 

 守るべき人がいると、人は強くなれる。

 

「……あのさ。もう1回、今のプロポーズの流れ、やってもらっていい?」

 

「はあ?」

 

「私、瑞急の南森町駅で待ってるから。まだ遅くないでしょ、時間的にも」

 

「しかも、実際に対面するんかい……分かったよ、今から行くから待ってろ」

 

 僕はショルダーバックに、指輪の入った箱と財布、それに『銀河鉄道の夜』の文庫本を入れた。

 

「電話、一度切るよ」

 

 忘れ物がないか入念に確認した後、僕は家から出て鍵を閉めた。

 アパートの最上階の通路から見える夙川の頭上には、満天の夜空が広がっていた。

 

 まるで、伊丹で見上げた夜景のように。

 そして、あの本で夢見た景色のように。

 

 次の電車が、もうすぐ駅に到着する。

 

 銀河鉄道が走り出す。