読切「陽のあたる道で」(前編)


自宅宛てに届いた、厚みのない封筒。

中に封入された通知文は、受験期の重圧から僕を解放したのだった。

一応、ホームページでも結果は見られるそうだが、接続が混み合い閲覧ができなかった。

 

もしかすると、全ての入試を終えた後は、刑期を終えて出所したような感情だったのかもしれない。

ゲームやスマホにかじりつくわけでもなく、塾の自習室以外の場所に放浪するわけでもなく、受験勉強に使用していた時間が、睡眠や部屋の整理にそのまま充てられた。

未決定の進路は、心理的にも不安定さを患う原因になりうるのだ。

 

封筒の中身は、後期入試の合格通知が1枚。

そして同じ用紙、下部の※印に続いて書かれた文字。

入学手続きはWeb出願にて行い、入学金の支払いや必要書類の提出など、手続きの流れはWeb出願サイトにPDFが公開されているとのこと。

 

あの薄い封筒を見て、あらゆる感情が絶望的になった時間を、返してほしいくらいだ。

それにしても、文明は急速に進んでいるのだ、と感じた。

大学の講義もオンラインを駆使するのだろう……と、期待に胸を躍らせる。

 

入試の結果を伝える文面を家族に送信した後に向かったのは、東灘(ひがしなだ)駅近くにある学習塾。

東口を出て道路沿いに歩いて10分ほどの距離に、教室が存在している。

昨年の春にオープンしたばかりの塾で、大学受験生としては僕が1期生の学年にあたる。

高2の途中までは勉強についていけたが、あるタイミングでつまずき始め、少しずつ成績が下降していった。

その状況で塾を探していた矢先に、駅で高崎先生が配布していたチラシでこの塾の存在を知り、教室見学と数回の体験授業を経て5月に入塾することになった。

近隣の大手塾や予備校とは違い、地域の学習塾という雰囲気が気に入ったのかもしれない。

狂ったように勉強勉強、と言われるのも好きではないのだ。

 

今日は誰にも表情を悟られたくないからと、普段使わないエレベーターを選んだ。

幸い、昼過ぎの時間帯は他の生徒も学校にいるようで、1人のままビルの3階へと上がっていく。

扉を開けると、待ち構えていたのは高崎先生だった。

僕が「こんにちは」の第一声を出すよりも前に、高崎先生は「お疲れ様」と囁くように声をかけてくれた。

どうやら表情を見てすぐに察したようで、小さく微笑んだまま面談ブースに通された。

 

自習室には他の受験生も数人いたが、イヤホンで耳を塞いで集中しているようだった。

窓側の列、奥から2つ分のスペース。

入試前日まで僕たち2人がいた指定席は、今日は誰も使用していなかった。

 

「——金子、どうだった?」

「合格でした。何とか滑り込めて良かったです」

 

「夏の模試はE判定だったもんね……よく追い上げたな」

「足の速い高崎先生が、ラストスパートの仕方を教えてくれたので」

 

「いやいや、勉強な。走り方は教えた覚えがないなあ」

 

高崎先生は、大学生の頃に西宮神社の福男選びで三番福になったことがある脚力の持ち主だった。

もちろん勉強も、楽しく分かりやすく教えてくれた。

数人在籍している学生講師と一緒になって教室を盛り上げたり、何かイベントがある度に写真を撮って投稿していた。

ちなみに、娘さんが1人いるそうだ。

 

部屋では、10分ほど会話していただろうか。

例えば、大学生になったら「うちの講師にならないか?」という話。

進学する大学が関東圏なので、その案だけには首を縦に振ることができなかった。

 

他には、合格体験記の執筆依頼や、中3生も含めた受験生全員へお守りで渡してくれた、そろばんのキーホルダーの話も。

高崎先生曰く、そろばんの珠が「5」か「9」以外にならない仕様になっているため、験担ぎで「合格」になるのだという。

そろばんは、兵庫県の小野市の名産品らしく、オンラインで取り寄せたのだという。

瑞急で西に向かえば行けるとのことなので、機会があれば是非行ってみようと思う。

 

合格体験記の原稿提出のために、先生は連絡先も教えてくれた。

そして、話題は同級生の話に移っていく。

 

「何か連絡ありましたか、開野からは」

「まだだよ。同じ後期日程だから、今日連絡があってもいいだろうけど……」

 

開野は、いわゆる「自習仲間」だった。

名字が開野(かいの)で、名前が襟紗(えりさ)。

 

違う学校に通学する同級生で、僕が入塾した5月よりも前からこの塾に通っていたそうだ。

自習室では窓辺の端を指定席としていた。

初めて話したのは、模試会場の大学で彼女から声をかけられたときだった。

普段は無口な印象があったのですごくドキッとしたけど、内心嬉しかったりもした。

模試や受験の会場は、心理的な面で孤独に感じていたからだ。

 

自由席の自習室では、毎日来るような生徒の座席が固定されていく傾向があるらしい。

気分で座席を選んでいた僕は、自ずと彼女の隣に座るようになっていった。

自習中に何かを話すわけでもなく、質問をするわけでもなく、黙々と時計の針が進んでいく。

そんな時間が愛おしくも思えた。

 

冬休み以降の高校3年生は、学校の授業がある日が少なくなり、基本的に自習室に引きこもる生活を送る。

開野が先に自習室へ来ていることが殆どだったが、この頃からは僕の方が先に来る日も増えてきた。

 

学部・学科こそ異なるが、志望校の大学は同じだった。

僕が教員免許を取得できる学部で、開野が経済系の学部を志望していたと思う。

それでも、共通テストや前期入試を終えた後も、自己採点や入試の結果を報告し合う場面はなかった。

前期入試当日の次の日も、合格発表の次の日も、お互いが自習室に来ているという事実だけで、何か結果を察せた気がしていた。

 

受験とは孤独なのだ。

だからこそ、心強い「自習仲間」だったと思うし、何より感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

「また、何かあれば連絡してください」

 

合格体験記の記入用紙を鞄に入れた僕は、高崎先生に一礼をした。

 

「オッケー。進学の準備が忙しいとか、何か書くのが面倒臭いな……ということがあったら、半年後に写メでもいいから体験記書いといてね」

 

僕は「はーい」とふわふわした返事をした後、後ろを振り返って手を挙げた。

普段のように、扉の前から見えなくなる瞬間まで、高崎先生はしっかりと僕を見送ってくれた。

 

下ボタンを押し、帰路のエレベーターの到着を待つ。

ボタンのやや上側にある階数表示が、1…2…と着々と増えていく。

そして、3の表示が出た段階で、下ボタンの光が消える。

エレベーターの中から現れたのは、開野だった。

 

「——金子くん、おめでとう!」

 

記憶は定かではなかったが、どうやら勢いよく現れた彼女に抱擁されたらしい。

消極的なイメージがあるだけに、混乱していたのかもしれない。

開野は後日、この時の僕の表情を「あらゆる感情がミックスされたような形容しがたい顔」と言っていた。

もちろん驚きもしたし、合格を祝福されて嬉しかったりもしたし。

だから今日は、誰にも表情を見られたくなかったのだよ。

 

すると背後の扉が開き、高崎先生が再び顔を出した。

 

「まあ、そういうことだよ」

「先生……どういうことですか?」

 

高崎先生は「これから説明する、詳しくは中で」と言って、僕を教室内へと連行した。

開野も乗り気のようで「さあさあ、どうぞ」と背中を押していた。

そんな一面があるなんて聞いていない。

 

2人から聞いた話をまとめると、概ね次のようになる。

 

まず、開野は前期入試で既に合格していたという話。

彼女曰く、「早めに合格して、入学までに学力が落ちないようにするために、後期入試の日までは自習室で勉強していた」とのこと。

高校卒業した後の貴重な空白期間なんだから、遊べばいいのにと内心思ったけど、その思いは声に出さずに、「へえ……」と軽く流した。

 

次に、開野の性格面の話。

彼女が勉強をする際の集中力は凄まじいもので、挨拶程度の最低限の言葉しか話していなかった。

しかし、素の性格は意外と明るいとのこと。

互いの連絡先を交換して文面での会話をしていたわけではないので、もちろん本性は分からない。

開野は勉強をするときやスポーツをするときなどに、我を忘れるほど熱中してしまうらしい。

そのため、昔から上手く気持ちを切り替えられないことが多く、友人関係に悩んでいたようだ。

受験勉強から解放された結果、精神的にも自由の身になれたらしい。

僕と同じく、1年の「刑期」を終えたのだろう。

この気持ちは痛いほど理解できるし、殆ど同意できる。

 

そして、今日のこと。

後期入試の合格発表当日で、僕が塾に結果を伝えに行くと予想して、東灘駅のフードコートで待ち伏せしていたらしい。

高崎先生とは合格後に連絡先を交換していたそうで、僕が到着してすぐに面談ブースに入った頃に「金子来たよ」と連絡があったのだという。

この塾は、駅から徒歩で10分ほどかかる。

先生とは10分ほど話していたのだから、上手く時間調整をされたのだろう。

以上が、先ほどのエレベーター前の抱擁事件に至るまでの真相である。

 

いわゆる「ドッキリ大成功」のネタばらしが終わった後に、今後の合格体験記で写真を使用するため、先生はそれぞれの単独写真を数枚ずつ撮影してくれた。

 

「せっかくだから、そろばんのキーホルダーも出しなよ」

「開塾1年目は、このキーホルダーのおかげで、中3生も含めて全員合格したもんね」

「なんか縁起が良さそう」

 

こういった会話もあり、その場の流れで、僕たち2人がキーホルダーを手に持ってピースをしている写真も数枚撮影してくれた。

開野がそろばんの珠をパチパチと弾きながら「拍手みたい!」と閃いたのか、僕に向かって「合格おめでとう~!」と珠をパチパチさせながら笑顔で祝福をしてきた。

すごく嬉しかったけど、やはり慣れておらず照れの感情が勝っていたと思う。

寡黙だった「自習仲間」のこんな一面は、昨日まで一瞬も見たことがないのだ。

 

ツーショット写真ではなく単独写りの写真を合格体験記では使用する旨を、高崎先生に約束した。

彼女が「必ず1人写りを使ってくださいよ」と念を押していたのが、とても印象的だった。

 

 

「陽のあたる道で」後編に続く