読切「水色」(前編)


 

 青二才。

 今日、職場で先輩から言われた言葉。

 瑞急線の車内に揺られながら、スマートフォンの画面で意味を調べていた。

 どうやら、若くて経験の足りない未熟な男性のことを指すそうだ。

 もう、社会人も10年目に差し掛かってきたというのに。

 

 特急は坂を下りながら、地下へと潜っていく。

「間もなく、明石。明石です。お出口は左側です。JR神戸線、阪神電車はそれぞれお乗り換えです。この電車は、特急姫路行きです。明石の次は、二見に停車します」

 僕は次の明石駅で下車し、各停に乗り換える予定だ。

 たまたまこの日は仕事が早く終わったため、出来ることならば自宅へと直行したいところである。

「すみません、次で降りますので」

 進行方向右側の窓際に座っていた僕は、通路側の座席の男性に一言かけてから、扉の前へと移動した。

「——この駅で、各駅停車に連絡します。この先、二見で各駅停車に連絡します」

 

 地下駅の扉が開くと、僕は対面ホームの各駅停車に移った。

 平日昼間の14時頃だろうか。

 先ほど乗車していた特急はそれなりに混雑していたものの、この各駅停車は比較的空いていたため、ロングシートの端に着席することができた。

 少人数のグループ客を除いて、1人分の空席がぽつぽつと見受けられるほどで、立ち客も扉の周辺に数人程度だが存在している。

 発車メロディーの「海の見える街」が鳴り響き、鉄紺色の特急車両が明石駅を発った。

 誰かが階段を駆け下りる音が、聞こえてくる。

 特急に乗り遅れた女性が、ホーム上で特急を見送っていた。

 

 瑞急の「特急」は、日中は10分間隔で運行されている。

 大阪・梅田~姫路間をおよそ70分で結ぶ、まさに関西の大動脈の1つとして挙げても差し支えないはずだ。

 毎時4本運行されるJRの新快速ほど早くはないが、運賃が少し安く、何より自宅の最寄り駅が近いという理由で、私は瑞急を愛用している。

 

 あの女性が青筋を立てながら、同じ車両の中へと歩いて行くのが見えた。

 何かと顔を合わせてはいけない雰囲気も感ぜられたので、スマートフォンの画面に思わず視線を戻した。

 駅員が手を挙げて、各駅停車の扉が閉まる。

 不意に、自身に課されていた「宿題」を思い出した。

 

「来年に産まれる予定の子どもの、名前の案を出しておいてね」

 

 勿論、仕事場のタスクではない。

 妊娠3ヶ月ほどの家族の話である。

 おなかの赤ちゃんにも味覚が芽生え始め、めざましく発育を遂げようとする時期。

 妻と一緒に「両親学級」に参加したことがあるが、やはり知らないことは多い。

 人生で初めての経験は、楽しさよりも怖さのような感情が勝っている現状だった。

 この早い時期に名前を決めようにも、どちらの性別の子どもが生まれてくるかは未知数だし、最後まで上手くいくかどうかは定かではない。

 当然、心からそう願いたいところだが。

 どの子が生まれても良いように、ランキング上位の中性的な名前で用いられる漢字を調べ始めることにした。

 ブラウザと同時にスマートフォンのメモ帳アプリも開きながら、ネットサーフィンの要領で記事を読み進めていく。

「硯町、硯町です。お出口は右側です」

 再び地上へと上がった各駅停車は明石川を渡り、始めの停車駅である硯町駅に到着した。

 僕の視線の先には、明石の住宅地や神戸に連なる山々が映っている。

 きっと後ろに、明石海峡大橋や瀬戸内海、淡路島が見えてくるのだろう。

 

 蓮。

 花言葉の1つに「清らかな心」があり、ハスの花の特徴である「泥にまみれながら花を咲かせる」様子から、ポジティブなイメージも受けた。

 

 陽。

 太陽のように明るく優しい人を願う名前で、実りある豊かな人生を送ってほしいという願いも込められるそうだ。太陽の「よう」だけでなく、「はる」「ひ」などの他の読み方も多くあるそうだ。

 

 悠。

 こちらも近年に増えてきた漢字。「ゆう」「はる」と読まれることが多いらしい。落ち着きがあるとか、おおらかみたいな意味があるそうで、マイペースに大器晩成的なことを成し遂げるタイプの子になり得る可能性もある。

 

 ランキングの上位を見ていると、他にも結や葵など、両性に用いられる漢字が意外と多いことに気付いた。

 僕が幼かった頃とは異なるものが多く、時代の流れの速さに驚嘆した。

 それでも、こんな「あるある」の名前で良いのかな、という想いも生じる。

 昨今はキラキラネームと呼ばれる名前が話題になっているが、産まれてくる子どもの将来を考えると、なかなか難しい話だった。

 

 名前は日本語表記にして、外国語読みをするパターン。

 黄昏と書いて、トワイライト。

 正義と書いて、ジャスティス。

 白昼夢と書いて、デイドリーム。

 何だか、頭が可笑しくなってくる。

 まるで心が叫びたがっているようだが、それはあまりにも失礼だ。

 子どもに与える「名前」は、人生で最初のプレゼントだ。

 悩んで悩み抜いて、良いものを捻り出したい。

 小説家や漫画家だけでなく、親になる人間は、こうやって何度も「生みの苦しみ」を味わってきたのだろう。

 この苦しみを味わうことで成長も出来るだろうし、苦しみが楽しくなってくるときがいつか来るかもしれない。

 全く味わったことはないけど、陸上選手のランナーズ・ハイみたいな感覚みたいに。

 どうやら、行き詰まったようだ。

 気付けば僕は、揺れる車窓を眺めていた。

 

「まもなく藤江、藤江です。お出口は左側です」

 景色の移り変わる速度が、段々と遅くなっていく。

 僕は思わず、何でもない車窓に惚れてしまっていた。

 いったん落ち着こうとしていたその瞬間、スマートフォンが震えた。

 音自体はあまり大きくはないが、近くにいた人々が僕の方を怪訝そうに見ていた。

 明石駅で乗車してきたあの女性にいたっては、僕の顔すら見ようともせず、相手にしない姿勢を醸し出していた。

 たしかに音は切っておくべきだったと、僕は猛省した。

 扉が開くと同時に、無心で席を立っていた。

 どうか、何かの悪夢であってほしい——心からそう思った。

 しかし、僕を現実へと戻したのは、本来降りる駅ではない駅で下車したという悲惨な事実だった。

 

 

☆「水色」後編は、こちら