第2話 「曇天を走る」
梅田新道のカーブを通り過ぎると、次駅の接近放送が流れ始める。次の梅田駅では、乗換が可能な路線が非常に多いのだ。駅間が短い分、少し早口の音声にも聞こえる。
JR京都線に神戸線、宝塚線、大阪環状線。
少し前に延伸された、おおさか東線。
地下鉄は、谷町線と四つ橋線。
私鉄は、阪急・阪神・瑞急・阪奈の各線。
遠い将来には、なにわ筋線や阪急の連絡線が乗り入れるそうで、梅田ダンジョンは複雑さを増していく。
大都市に所在する「立体型迷路」ともいうべき巨大アトラクションを、迷わずに進んでいく大阪駅ユーザーを見ていると、兵庫県民としては尊敬に値する。
左側通行に従いながら、人波に流されるがままに進んでいけば、何とかなるはずだ。
接近放送の言語が英語に変わった頃に、周辺の利用客の半分ほどは、降りる準備をし始めていた。
梅田で、やはり多くの客が下車するのだろう。
次駅で開く予定の扉を向いて並んでいる方も、少なくはないようだった。
ここは、スタートダッシュが肝心だ。
同じルートで4分後に追ってきている、最悪の場合を想定して、彼の想定し得ない方法で西側へと向かわなければならない。
大丸百貨店や阪神の方向に向かって進んでいけば、瑞急線の梅田駅は見えてくるだろう。
車両の扉が左右に開く。
朝の往路とは異なり、ホームの北端に停車した車両。
10両分はあるホームの上をそのまま南へ歩いて行くのも、気が遠くなる。
ホーム中央付近にちょうど良さそうな出口があることを示す案内を発見したため、結果として数両分だけ歩いて向かうことにした。
複雑な地下道を、記憶と案内標識を頼りに進む。
人波の中で立ち止まることはできないため、そのまま流れに従って歩いていく。
改札間の移動では、阪神百貨店付近の工事に伴って、一部のルートが仮設通路になっていた。
ロスタイムは限りなく少なく、この区間以外は概ね順調に進むことができたと思う。
外は晴れているのだろうか。
まだ、雨は降っているのだろうか。
そう考えながら、瑞急線の改札を通り抜けた。
先ほどの移動中にすれ違った人々の様子を見る限りは、傘がしっかりと塗れていたり、丁寧にビニール袋に包まれていたため、今も天候は変わっていないだろう、と感じた。
ふと顔を見上げると、ターミナル駅ならではの発車標が目に映る。
瑞急線梅田駅は6面6線を有する、瑞急線内では最大の駅。近年に増築された0番線が最も北側に位置し、そのまま順に5番線まで並んでいる。降車専用ホームが随所に挟まれている点も特徴的だ。
梅田駅では3台の発車標が横に並んでおり、右側の0・1番ホームには神戸空港行きの空港特急「快都」と姫路城前行きの特急「海日向」が表示されていた。愛称が設定されていることもあり、それぞれが固有の車両を使用し、指定席車両が設定されている。後者の海日向に至っては、全車両が指定席車両だ。
その他、2・3番ホームは特急と急行、4・5番ホームは準急や普通が使用している。尼崎で瑞急ファルコンズの試合が開催される際には、使用していないホームに臨時急行が入線することも多い。
視界右端の0番線には、特急車両の紺色よりも明るめの青色をした「海日向」が停車していた。自宅の所在地は、明石駅の先にある小駅のため、明石まで特急に乗車して、各駅停車に乗り換える形が最も早そうだ。
何しろ、今日は時間がある。普段は乗車しない区間、出来ることなら終点まで乗車したい。
始発駅から全車両指定席の電車に乗る形なら、充分に心も安らぐはずだろう。トレインセラピー、とでもいうのだろうか。
私は、0・1番ホームの途中にある券売機で「梅田→姫路城前」までの指定席券を購入する。6両編成の車内は、S席、A席、個室席、グループ席から構成されているらしい。今回は、リフレッシュも兼ねて先頭車両の1人席を確保した。S席は最も安いA席と比較して280円の追加料金を必要とする。購入時のディスプレイに表示された座席配置を確認する限りは、座席がゆったりと配置されており、プチ贅沢した結果もおそらく期待できそう。
既に入線していたものの、梅田駅の発車時刻は十数分ほど先のようだった。
構内のトイレを経由した後、ホーム先頭の乗車車両へと歩いていく。
海日向の向かいの1番線に空港特急「快都」がちょうど到着したため、車両の窓には降車専用ホームへと降りる人々が映っていた。大型のスーツケースやキャリーバックを持った群れの中には、御堂筋線の時とは異なり、外国人観光客や学生も含まれていた。
ホーム先端部に陣取る数人の鉄道ファンが、自前の機材で海日向と快都を写真に収めていた。やや遠慮気味に後ろ側で、私はスマホを取り出してカメラを構える。数枚撮影してみたが、出来は良さそうだった。実際の撮り鉄の方は、動いている車両も撮影対象だと思うので、撮影技術の凄さに驚かされる。撮影を行う表情は真剣そのもので、良い写真が撮れた際には得意げな様子も見えた。
海日向の先頭車両の入口は、車両後ろ寄りの1か所のみだった。
車内は、外装と同様の青緑色と白、金色が基調のデザインになっており、S席が設定されているこの車両は、進行方向左側に1人席、右側に2人席がゆったりと設置されていた。私の座席は一番前の展望席ではないが、立ったときには先頭の景色も眺められそうだった。とはいえ、後方から2列目である。1人席の方に陣取り、鞄から飲料水が入っていたペットボトルを取り出す。
「今日は歩いたからなあ……」
僅かに残っていた水分を飲み干し、車内の自販機へと向かった。ゴミ箱は販売機付近に無さそうなので、脇にペットボトルを挟んで席に持ち帰ることにした。
先頭から乗務員室、客席、無人販売機、乗降口、トイレといった設備が設置されている1号車。自販機目当てに来たものの、無人販売機には、挽きたてコーヒーなどの飲料販売や、お菓子などの名産品やプリン、アイスクリームが並んでいた。流石のS席と言わんばかりの設備の豪華さ。他にも、瑞急や海日向グッズの販売もあるようだった。
コーヒー代として200円を支払ったものの、なぜか得をしたような気分で元の座席に戻っていく。A席との差額は280円だったが、居心地の面で元を取ることはできただろう。
ふかふかの座席は、身体が溶けていきそうなほどの快適さだった。
撮り溜めた写真の整理をしていると、彼からの通知とは異なるメッセージが飛んでくる。
その多くは、淀屋橋駅で『こわいこわい』と打った投稿への返信だった。
具体的には、『えっ、何がこわいの……?」から『大丈夫??』というコメントまで幅広い内容だったが、数人が私のことを心配しているようだった。
心配してくれる存在が遠くであれ、どこかにいてくれるという事実が愛おしい。
私は全ての返信にいいねマークをつけて、さらに「大丈夫そう、何とかなる、なるはず」と投稿を重ねる。
「まもなく、神戸方面姫路城前行き、特急・海日向が発車します」
どちらかといえば明るい声で、車掌が発車時の放送を行う。
深み豊かなメロディが流れ、殆ど音を立てずに車両後方の扉が閉まる。
巨大ターミナルの梅田駅を緩やかに加速しながら、後にしていく海日向。
進行方向左側にいる撮り鉄集団は真剣にカメラを構え、彼らの後ろにいた親子連れは無邪気な笑顔で手を振っていた。
がたがたと音を立てながら分岐部を通り過ぎる。
1分ほど地下を走っていた線路は、鷺洲駅の直前で地上へと姿を現す。尼崎市までの区間は概ね種別ごとに線路が分かれる複々線区間で、特急や急行が通る高架線を今は走行している。
夏には花火大会で賑わう大河でもある淀川を渡り終えた頃に、停車駅案内の放送が流れる。
「今日も、瑞急線をご利用いただきありがとうございます。この電車は、神戸方面姫路城前行き、特急・海日向です。この電車は全席指定席の6両編成で運行しております。途中の停車駅は、三宮・明石・飾磨・姫路です。次は三宮、三宮です。ポートアイランド・神戸空港方面と、神鉄線・JR線・阪急線・阪神線・ポートライナーはお乗り換えです。三宮の次は、明石に停まります」
複々線区間を全速力で飛ばす風景は、まさに爽快だった。
天気こそは相変わらずの悪天候だったが、微かに映る海側の車窓は悪くはなさそうだ。
前方座席の後ろ側のスペースに配架されていた小雑誌は、新幹線のグリーン車で見るような配置だった。表紙に「テイクフリー」と記された沿線観光ガイドや、海日向について書かれたリーフレットが入っていたので、簡易机の上に梅田駅で購入したコーヒーと、先ほどの観光ガイドとリーフレットを置いた。
コーヒーはコクが深く、しっかりとした苦みのある味わいだった。中之島や移動中の道中で曇天を走ったせいか、冷えた身体に沁みていく。
観音開きで構成された海日向のリーフレットには、車両ごとに異なるコンセプトや設備の説明や、誕生秘話などが記されていた。
青色、赤色、黄色で構成された車両ロゴは、海岸線を走る瑞急沿線を、南側から太陽が照らして「日なた」をつくり、色とりどりの果実が育っていくイメージで名づけられたという。名前の由来を知って素敵だな、と思いつつ、公募で選ばれた愛称を考えた人物が当時高校生だった、という記載には思わず驚いてしまった。車両デザインの方は、デザイナーが愛称の決定後に作成した案が採用されているらしい。
ちょっと特別な日——すなわち、非日常的な機会の利用を想定している「海日向」では、他にも随所にこだわりが隠されているらしい。是非、あなたも乗車して体感してほしいと思う。