☆「水色」前編は、こちら
気が付いた時には各駅停車の扉が閉まり、僕は藤江駅のホームに取り残されていた。
数十名の客が出口の方へと足を進めているようで、人の波が抜けた後には孤独になっていた。
スマートフォンの音は既に止まっているようで、不在着信の通知が1件表示されていた。
エレベーターの向かい側に設置されていた自販機で、1番安い値段の飲料水を購入した。
「ワンコインか……」
都会で日中を過ごす僕にとっては、100円で水が買えるという冗談みたいな現実を見て、少し笑みがこぼれた。
職場の同僚だったら、「コンビニは行かへんの?」とか言って、笑わせてきそう。
自分たちのことに精いっぱいで、周りを見る余裕なんてなかった。
下なんて向いている場合じゃないか。
釣銭が無いことを確認しつつ、僕は視線を上げて海側の方を見た。
天気は小雨。
今日は、波が少し出ているようだった。
数人のサーファーが海に居るのが見える。
「そうや、美南に電話もせんと」
ペットボトルのラベルを剥がし、ラベルをごみ箱に入れた。
僕は待合室に入り、椅子へと座る。
待合室の中には、誰も人が居ないようだった。
今度は誰にも迷惑をかけずに、電話をしないといけない。
再び、スマートフォンが振動する。
先に購入した、水が入ったペットボトルを隣の椅子の上に置く。
画面を冷静にスワイプした。
「もしもし」
『どうも、私です』
電話の相手は、美南。
私の妻である。
馴れ初めなんて、言えるもんじゃない。
恥ずかしいけども、いずれ分かるだろうから。
「美南やな、今日はどうしたん?」
『もうお盆が近いから、仕事も早く終わるのかな、って思ってさ』
「たしかに先生は、授業がない夏休みでも大忙しやからなあ。それでも、やらんとあかんことは、今日で片付いた。明日は高校へ寄る予定があるけど、午前だけやから何とかなりそうね」
『そうかそうか、おつかれさん。いつも辰巳先生が忙しくて、めちゃくちゃ頑張っているのは、私も知ってるから』
「美南さん、ナイスよ。そう言ってもらえると、やる気上がるわ。今日、家事は何か出来そうやった?」
『洗濯物と軽めの掃除は、辛うじて耐えたよ』
「今日もありがとう、帰ったら買い物行こうか」
『いいね、今日は何だか機嫌がいいや。今はどこに居るの?』
僕は「そうだなあ……」と言いながら、向かい側のホームの駅名標を眺めた。
そして、もう一度海側を見る。
「——ここは、海のよく見える駅やね。今は、雨が少しだけ降っとるわ」
『なるほど、瑞急は海が見える駅多いもんね。それなら、早く帰ってきてくれそうだね』
電話の向こうの彼女から、微笑が聴こえた。
「ああ、早く帰りますとも。電車に乗っている時に、美南が電話をしてきたか——」
その時、猛スピードを出しながら、紺色の車両が背後を通り過ぎていった。
『電車が通過したの?』
「うん、せやね。また、もうすぐ次の電車が来るよ」
『……ところでさ、宿題は終わった?』
美南が告げたその一言に、僕は間を置いてから答える。
「何個か、思いついた漢字があるよ」
『へえ、教えて』
「まずは蓮。くさかんむりに、連続の連ね。花言葉は、清らかな心。泥にまみれても花を咲かせるポジティブな子」
『清らか、ねえ……たしかに、ポジティブな名前は素敵だな』
「次は太陽の陽。明るく優しいのはもちろんだけど、実りある豊かな人生を送ってほしいという意味もあるんやって」
『いいなあ、ポジティブさが伝わるなあ。ネガティブな名前は付けられないからね、当然だけど』
「最後は、悠。最近増えてきたんだってさ。落ち着きがあるとか、おおらかみたいな」
『いやあ……落ち着いてはいないでしょ、私たちは。逆にそういうタイプの子が居たら、家族としてはバランスが取れるんだろうけど』
「たしかに、僕も美南も落ち着きが足りひんからなあ。ていうか、国語の授業みたいやん。漢字の話ばっかりしてさ」
美南が、先ほどよりも大きく笑う。
彼女が僕の教え子だった頃。
僕は、美南のクラスの現代文を指導していた。
大学受験に備えて、放課後は毎日のように学習に励んでいた。
国語は本人曰く「苦手」だそうで、センター試験後には自己採点の結果ではなく「ネタ化」した問題の感想を長々と聞かされたこともある。
『本当やね……じゃあ、落ち着いた名前の子に産まれてきてもらってさ、私たちを落ち着かせてもらいましょうよ』
「うん、やむを得ないね」
大学受験後は、殆ど接点が無かった。
しかし、僕が休日に出身大学の部活を訪問した際、彼女と対面した。
後で聞いた話だが、好きで僕を追ってきたのだという。
正直な所、本当に恐ろしかったくらいだ。
ペットボトルの蓋を開けて、水分を補給する。
波の音が、少しずつ止んでいく。
降っていたはずの雨粒が、視界から姿を消した。
「——波が、段々と落ち着いてきた」
明石の海の色。
昼間の空の色。
こんなに素敵な青色は、なかなか見たことがない。
『ん……、私の話?』
「い、いや、美南やなくて波の話」
『あ、そうなの。そういや、今は海の見える駅に居るんだよね』
「そうだよ。雨も止んで、空が青く見える」
『いいな、私も見てみたかったなあ』
「後で写真撮って送るよ」
『ありがと』
僕は待合室の外に出て、駅の南側の風景を眺めることにした。
思えば、春に発表された新元号は「令和」だった。
もう今年は8月なのだから、令和元年に突入したのだ。
初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
たしか、万葉集の梅花の歌。その序文だったと思う。
空気は良く、風は和んで落ち着いている。
今の藤江駅は、ある意味「令和」状態なのかもしれない。
「——なあ、美南。思いついたよ、宿題の漢字」
『おっ、これは気になるね!』
「名前に入れる漢字に、凪はどうかな。机の右側の部分を書いて、その中に止まる、で凪ね」
『うん、名前の響きは良いかも。ところで意味は?』
「波とか風が止まって穏やかになるイメージやから、波の立たない穏やかな人生を過ごしてほしい、みたいな感じ。これでどうかな?」
僕が話している時にも、美南の『うん、うん』という相槌が聴こえてきた。
きっと、好感触なのかもしれない。
『たしかに、これなら納得かも。もちろん派手な人生も素敵だけど、良くも悪くも波が立たない人生を送れるなんて、当たり前じゃないからね。根拠はないけど、私たちよりも落ち着いた良い大人になってくれそうだなあ……』
「私たちよりも、とか言っちゃ駄目だよ。今はもっと大変な人たちも居るんだからさ、知らないけど」
『そうかな。まあ、それもそうなんだけど。海斗と美南に凪で、みんな水属性の名前だね』
「いや、風属性……海属性かも」
『でも、この子の名前が決まりそうで良かったな……ねえ、凪くん!』
電話の向こうで、美南がお腹の子に声をかけているのだろう。
美南と一緒に呼べる日が、早く来てほしいな。
この子の名前を。
「凪くん、いや凪ちゃんかな。そもそも、今の段階で性別は分からへんやろうし」
『そうだね、早く呼べると良いね。この子の名前』
僕は、小さな声で「うん」と頷いた。
「間もなく、2番線に姫路方面へ向かう電車が到着します。黄色い線の内側までお下がりください」
先発の各駅停車の到着に向けて、駅構内に放送が流れる。
瑞急の場合、ここから電車が実際に到着するまで1分ほどかかることが多い。
「——もう、電車来る」
『そう。海の写真撮るの、忘れないでね』
「うん、わかった」
僕はスマートフォンの画面をスワイプし、カメラを起動した。
雲は少しだけ見えるけど、立派な晴れ模様だ。
画面のボタンを、数回タップする。
これだけ撮れば、最低1枚は綺麗に映っているはずだろう。
列車の接近メロディーが流れ、深緑色の車両が遠くに見える。
あと1枚だけ。
そう思って、僕は右手でスマートフォンを構える。
左手には、水の入った小さなペットボトル。
既に、半分ほどを飲み干していた。
右手の親指でボタンを押して、写真を確認する。
これ以上ないくらい素敵な水色が、ペットボトルから透き通って見える。
容器の中に残った無色透明な水は、まるで鏡のように僕を映していた。
青二才の彼が、不器用な笑みを浮かべている。
「今度は、皆で行きます」
目的地は、2つ先の駅。
愛する人々が、待っている場所へ。
各駅停車の扉が、静かに閉じられた。
【完】