第3話「高崎家の食卓②」 (第2話はこちら)
日付は火曜日に変わって、数十分が経った頃である。
最終「急行」を終点で下車していた僕は、西宮戎駅の改札にICカードを触れた。
やや遅れて、深沢さんも切符を通した。
全列車の停車駅でもある瑞急西宮戎駅は、阪急の西宮北口駅と並ぶ西宮市内の主要駅でもあり、非常に多くの利用客で賑わっている。
ただ、時刻はまもなく深夜1時を迎えるためか、やはりその喧騒は嘘のように静まり返っていた。
「やっぱり、店閉まってますね……」
駅の出口辺りを見渡しても、駅ナカの定食屋や飲食店は閉まっていた。
「ええ、そうみたいです。外に行ってみますか」
深沢さんは、それでも何か店を探すようだった。
この駅には北口と南口があり、北口からはJRさくら夙川駅、南口からは阪神西宮駅や西宮神社などに徒歩で向かうことが出来る。
「では、僕の家がある北口の方へ行きましょう」
僕が左側を指差すと、深沢さんは「はい」と小さな声で頷いた。
駅の階段を降りると、1軒のコンビニがまだ営業を続けているようだった。
「このコンビニで何かを買いましょうか。簡単な惣菜ならあると思いますので」
「そうですか……高崎くんが言うなら、此処で買いましょう」
彼女は、開いている店で外食を済ませたかったのだろうか、何ともいえない表情で店内へと入っていった。
僕は数分ほどスマートフォンを触っていると、彼女は「お待たせです」といって戻ってきた。
「何、買ったんですか?」
「そんなことより、早く食べたいです。何だか寒くなってきました」
たしかに彼女の言うことも無理はなかった。
この10月の深夜に、白いワンピースに上着を羽織っていないのだから。
くれぐれも風邪はひかないでほしいと願った。
「ここから数分ほどです。すぐの場所なので、向かいましょう」
「はい」
瑞急の線路に沿って少し西へと歩くと、夙川が見えてくる。
その手前に僕の下宿先の部屋があった。
「開けますよ、部屋には何もないですが」
深夜の時間帯であるため、僕はゆっくりと音を立てずに扉を開けた。
「――鍵だけ閉めておいてください。荷物は適当な場所に」
僕は深沢さんにそう声をかけたが、荷物を置くと、彼女は部屋の窓を開けた。
「危ないですよ!」
そう言って僕は、思わず彼女の手を掴んだ。
「えっ……」
彼女が驚いたような表情をしたので、僕は手を放すと窓を閉めた。
「この部屋は4階建てアパートの最上階で、窓の向こうには夙川が見えるんです」
「夙川ですか、聞いたことがあります。桜がとても綺麗な場所だそうで」
「よくご存知ですね。ただ、ここは高い場所なので、窓からあまり顔を出さないようにしてくださいね……怖いので」
深沢さんは「はい」と首を縦に振った。
「夕食にしましょう、僕はもう済ませましたが」
「そうですね」
彼女はキッチンで手を洗うと、コンビニで買ってきたであろう弁当を取り出した。
「今時のコンビニって、何でも揃うんですね」
「はい、僕もよく利用してます。料理が苦手なので……」
僕がそう言うと、彼女はそのまま容器の蓋を開けて「いただきます」と白米を口に入れた。
「お米が冷たいです」
「……すみません、ちょっと待ってください」
僕は弁当の容器を手に取ると、電子レンジの中へと入れた。
「少し温めますね」
彼女は「有難うございます」と再び頭を下げた。
僕はソファーに腰を下ろして、他愛もない話を始めた。
「深沢さんって、普段はどんな仕事をされているんですか?」
「私は出版社の記者をしています、大阪市内で小さな雑誌を作っています」
「もしかして、芸能関係の記者さんとかでしょうか……最近でいえば、ゲスみたいな類のやつですかね?」
彼女は「いいえ」と否定して、微笑しながら続けた。
「――地域ネタ中心のゆるい話を扱ってます。大手の週刊誌さんの調査範囲とは違って基本的に平和なので、私たちの業界は」
「ローカルネタですか。いいですね」
「ところで高崎くんは、何をされているんですか?」
「今は大学の四回生なので、次の春には無事に卒業です。まあ、卒業できると良いんですがね……」
僕は少し自虐していると、深沢さんはにこりと笑っていた。
「大学ですか、それはすごいですね。入るだけでも大変なのに……」
「むしろ、今は入ってからの方が大変なんです」
「そうなんですか、それは大変ですね……実は私は高卒組なので、年齢も近そうですね」
「失礼ですが、深沢さんはお幾つですか?」
「23です」
僕は驚きながらも「今は21です。来年3月で22になります」と返事した。
「――深沢さんはとても仕事が忙しそうですよね……毎週、あの時間帯の最終『急行』に乗られているんですか?」
「はい。この業界は休みが変則的なので、月曜日の仕事が終われば、毎週火曜日はお休みになります。なので、私は火曜だけ自由になれるんです」
ちょうどその頃、先ほどの電子レンジの音が鳴った。
「鳴りましたね、ちょっと行ってきます」
僕はソファーから立ち上がって、電子レンジから容器を取り出した。
「温かい唐揚げ弁当の出来上がり、ですね!」
彼女にその容器を渡すと、嬉しそうな表情を見せていた。
「いただきます!」
深夜1時過ぎの食卓は、予想よりも和やかな雰囲気だった。
深沢さんがご飯を済ませるまでの間、僕はソファーの上で寛いでいた。
この十数分ずっとスマートフォンを触っていたからなのか、たんに時間帯が原因の眠気が襲ってきたからなのか、眠気が僕を襲い始めていた。
「ごちそうさまでした!」
その彼女の声に押されるようにして、離れつつあった意識が戻る。
隣の部屋が空き家になっていて、本当に良かったと思った。
「ゴミは、向こうの箱の中に入れておいてくださいね」
僕は場所を指差しながら伝えた。
「わかりました」
深沢さんが、キッチンの隣にあるごみ箱に容器を入れたのを確認すると、僕の視線は再び画面の中へと向かった。
うっすらと、彼女が動く音がした。
ガサガサ、ガサガサ、バタン。
束の間の沈黙。
シャーと、水の流れる音。
☆
暗闇が映っていた視界が、ぼんやりと明るくなる。
優しい風が窓から抜けてくる。
僕にはその心地良さが、いとも簡単に受け入れられた。
ふと我に返ると、部屋の時計は昼の1時を指していた。
不意に視線を移す。
そこには、深沢さんの姿があった。
「おはようございます。いや……この時間はこんにちは、ですね」
「――こ、こんにちは」
僕はソファーから立ち上がり、彼女が座っているテーブルの方を向いた。
美味しそうに炊けた白米。
隣に添えられていたふりかけ。
野菜がたくさん詰められた味噌汁。
葱が入った卵焼き。
ワカメと胡瓜の酢味噌和え。
「高崎くんが起きるのが、余りにも遅かったので、昼ご飯を作ってみました」
「えっ、全部手作りなんですか……これ」
僕は開いた口が塞がらなかった。
何しろ、一度見ただけでこれだけ食欲が促される食事をあまり摂ったことはない。
「はい。お米だけは家にあった分を使ったんですが、あとはスーパーで材料を買い出しました。あっ、勝手なんですがキッチン使わせてもらって、有難うございました」
「いえいえ、僕の方も嬉しいです。まずは、ご飯を頂いても良いですか……?」
「ええ、勿論です」
その後に彼女から聞いた話では、僕はただ無言で、休む間もなく食事をとっていたとのことだった。
今考えれば、すぐに「美味しい」と伝えていれば、彼女ももっと喜んでいただろうに。
「ごちそうさまでした」
僕は食べ終えた勢いのまま、箸を茶碗の上に置いた。
「……お味はどうでしたか?」
深沢さんは僕の方を見て、問いかけた。
「何て言えばいいんでしょう……まず『美味しい』としか言えないです。僕の語彙が足りなくて、上手く表現出来ないのですが……とにかく生きててよかったと。あれ、ちょっと意味が分からなくなってきました……」
すると彼女は、心からの笑顔を振りまいた。
「そうですか、それは良かったです!」
「火曜日に、こうやって毎週美味しいご飯を作りに来てくれたら、どんなに嬉しいことか、ですけどね……」
この発言をした後に、一度冷静を取り繕った僕は「あっ、なんかすみません」と一言言って頭を下げた。
「いえいえ、私は良いですよ。火曜日に関しては自由ですし、ごはんを作ることが大好きなので、私にとっても有り難いです。何より、バランスの悪そうな食事をされているのが心配なので……」
僕は食器を重ねてキッチンの流し台へと持っていった。
後で洗いやすいように、シャーと水をかける。
「ちょっと一つ質問してもいいですか?」
彼女は「はい」と小さな声で答えた。
「深沢さんは『火曜日に関しては自由』なんですよね?」
「はい、そうですが」
「水曜日にしか大学の講義が無いので、僕も火曜日は何もないんです。折角なので、ちょっとご飯のお礼をさせていただいても良いですか?」
第4話に続く