読切「縮尺のない地図」(後編)


「縮尺のない地図」前編はこちら

 

 先頭を歩く櫨谷先生を、絶妙な距離感で追っていく。

 同い年とは思えないほど雰囲気が独特で、特に何も話すこともなく目的地へと辿り着いていた。

 

「——本当に早いですね」

「早く感じるような、素敵な時間を提供できて幸いです」

 

 櫨谷先生の自宅は、最低限のものが積まれて置いてある状態だった。

 その分、大量の書籍やパンフレットが棚にしっかりと収納されており、将棋盤の周辺には研究用のパソコンやノート、将棋関連の書籍が置かれていた。

 まるで作家の部屋のように、パソコンの周辺には付箋が貼り巡らされている。

 将棋盤と2つの駒台を床上に設置し、駒箱を盤の上に置くと、冷蔵庫からお茶のペットボトルを2本取ってきた櫨谷先生。

 ワンルームのアパートで立派に一人暮らしをする彼を見て、実家暮らしの自分と比較しながら「有難うございます」とお茶を受け取った。

 

「立派な将棋盤ですね」

「僕が宇治からここに引っ越したときに、師匠から頂いたんです。将棋が少しずつ慌ただしくなってきた頃でしたかね……そういえば、先日の人間将棋はお疲れ様でした」

 

「2週間も前ですけどね……先生も解説、ご苦労様でした。しかも、王位戦の七番勝負が開幕してまた忙しくなる時期にVSを組んでもらえて、本当に有難いです」

「僕と立花さんの対局日程も参考にしつつ、VSができそうな日を選ぶとなると、VSの日程はかなり限られますから。月1くらいでどうでしょう、我々2人が公式戦で対戦する場合は一旦お休みですが……どうぞ、お茶も飲んでください」

 

 私は「はい」と言いつつ、ペットボトルに入った麦茶を口に含ませた。

 その間に、櫨谷先生は対局時計を箱から取り出して、テーブルの端に置く。

 床上に置いた将棋盤とテーブルの高さが同じくらいになり、対局時計のボタンも容易に届く。

 私がペットボトルをテーブルの上に置くと、2人分のお茶が対局時計を挟むように並んでいた。

 

「それでは、VSを始めましょう。対局は持ち時間20分、使い切ったら1手30秒で良いですか」

「はい、宜しくお願いします」

 

 午前中は、それぞれが先手・後手を1回ずつ行う2局を行った。

 結果は櫨谷先生の2連勝で、二冠を保有するタイトルホルダーの貫録を見せられた格好であった。

 各対局後には丁寧すぎる感想戦を行いながら、振り返りを行う。

 同い年の猛者との対局は、私にとってたいへん貴重な時間だった。

 昼飯は「駅に色々ありますが、どうします?」と尋ねられたが、悩む時間も外出する時間も惜しいということで長考せず、ノータイムでハンバーガーの出前を取ることにした。

 慣れた手つきでスマートフォンを操作し注文を終える櫨谷先生に、私は感謝の意を伝えた。

 

「立花さん。ここで3局目に入ってしまうと対局中に出前が来て集中が切れてしまうので、一度休憩にしましょう」

 

 昼時で混んでいるのか、出前が35分後に届くらしい。

 1局が1時間ペースで行われている今は、3局目に入るのはたしかに悪手だろう。

 私は「そうですね」と頷いた。

 

「——ところで、あの棚に置いてある本とかパンフレットって、何ですか」

「なるほど、ずっと気になっていたんですね」

 

 櫨谷先生はそう言って徐に立ち上がると、「観劇です」と言いながら、5冊ほどのパンフレットを取り出して見せてくれた。

 私はそれを受け取るや否や、「いいですね」と眺める。

 

「小さい頃から本を読むのが好きで、よく読んでいたんですよ。そしたら、好きだった小説が舞台化されて。宇治から大阪に……いや兵庫でしたね、尼崎は。宇治から尼崎に上京した……」

「いや、宇治は京都なので、上京というのはちょっと」

 

「たしかにそうですね、日本語は難しい。そういえば、尼崎の市外局番は大阪と同じ『06』ですもんね。まだ数年しかここで暮らしていないので、よく間違えるんですよ」

 

 数冊あるパンフレットの表紙の中には、見たことのある題名が書かれているものもあった。

 好きなジャンルの小説や本は偏って読んでいたものの、知らない題名がやはり多い。

 

「——その流れで、舞台をよく見るようになって。大阪の将棋会館は福島区にあるので、会館に通いやすい立地であること。かつ梅田や宝塚に観劇へ行きやすい立地であることを考えて、この大庄を拠点にしています。趣味って、結構次々に派生していくので楽しいですよ。立花さんは、何か趣味みたいなものってありますか?」

 

 私は「そうですね……」と言って、長考へと入る。

 幼い頃の習い事も長くは続かなかったし、趣味も「浅く・広く」という状態だった。

 唯一、「深い」趣味は将棋くらいだろうか。

 

「なかなか浮かばないです。やっぱり将棋ですかね」

「そんなことだろう、と思いました。そういえば先日の人間将棋、良かったですよ。将棋はもちろんですが、武将の役に上手くなりきっていて。歴史ものが好きそうな雰囲気もしました」

 

「大河ドラマは、割と観る方です。特に、荒れた時代の戦っている様子を観るのが楽しいです。でも、体力がないのであくまで『観る専門』です」

「やっぱり、将棋が好きなんですね……でも体力がつかないと、長い持ち時間の順位戦や2日制のタイトル戦では戦いにくいと思います。相手だけでなく、自分自身との戦いみたいなものなので」

 

「すごく重みを感じます、その言葉」

 

 彼は櫨谷龍一、21歳。

 中学生棋士としてデビュー後、数々の最年少記録を更新。

 7大タイトルの獲得には足踏みが続いたものの、2年前に初タイトルを奪取。

 そして、昨年度に二冠王へ。

 現在は、3つ目のタイトルを獲得するため王位戦に挑んでいる、若きタイトルホルダー。

 

「歴史が少し好き、将棋が大好き……他には、何かありますか?」

「そうですね、後は景色を眺めたりとかですね。さっきも、初めて降りた駅だったので、数分は外を眺めていました」

 

「そうなると、行ったことのない場所に行くのが好きと。……それなら、これはどうでしょうか」

 

 次に彼が棚から取り出したのは、大きめの書籍だった。

 私が「もしかして、地図ですか」と尋ねると、「ご名答」と笑顔で返してきた。

 

「将棋盤って、縮尺のない地図みたいなものなんですよ。これを見てください」

 

 私が困惑していると、櫨谷先生が新大阪や梅田周辺の地図のページを開いて見せてきた。

 ページの左端にはアルファベット、上段には数字が順に並んでおり、これがマス目に対応しているようだ。

 

「本当ですね、たしかに紙の地図には将棋盤のようなマス目が書かれていますね」

「そうです。例えば、縦軸と横軸の交わったところがB3やC5。瑞急の梅田駅はD4です。これは、将棋の棋譜の『5三銀』とかと同じで、位置を分かりやすくするためのものです」

 

 私が地図を見るとすれば、スマートフォンのアプリくらいだったので、とても新鮮に思えた。

 

「——将棋の駒って、全部が必要な駒だと思うんです。絶対守らなければならない王将。攻撃に頼れる角・飛車に、守りに利く金・銀。唯一、他の駒を飛び越えられる桂馬。人間将棋ではなかなか動かなかった香車はロケットのような脅威があるし、1歩ずつコツコツ行く歩は敵陣に入ると、金に成り上がる」

 

「たしかに、全部の駒があってこそですよね。どれも欠かすことができない」

「対して、地図に書いてある道や施設も、基本的には全部に意味がある。施設はもちろんですが、道にも色々とあります。昔は線路が通っていた、みたいに今とは別の用途で使用されていたものもあります。規則的に並ぶ建物や道路の中に、何かイレギュラーなものがあったら、探してみてください。例えば、京都市内の碁盤の目の中にある斜めの道とか。歴史を感じられます。答えは言いませんので、その都度すぐに調べましょう」

 

「良いですね、散策は。新しい景色に出会えたり、歴史を感じたり、何より体力もつきそうで」

「瑞急沿線はレンタサイクルもあるので、それで巡るのも良いかもしれません」

 

「ところで、『縮尺のない』とは何でしょう?」

「簡単ですよ。将棋盤に、縮尺は書かれてないですから」

 

   ★

 

 大学を卒業して間もない頃、私は実家の加古川を離れて大阪市内での一人暮らしを開始した。

 自由な環境がかえって不自由に感じるほど辛くなることもあったけど、少しずつだが新生活に慣れつつあった。

 彼に教えてもらった「地図の話」は、結果的に私の人生に大きな影響を与えていた。

 

 昔の最寄り駅だった尾上駅への道は、廃線跡だということ。

 瑞急本線の一部の区間は、かつての路面電車の跡を通っていること。

 それどころか、加古川だけでなく兵庫全域に廃線跡が多くあるということ。

 鉄道や道路に関してだけでも、書き足りないくらいの発見があった。

 

 知らないことを調べず、そのまま残しておくことは簡単。

 でも、「知りたい」という好奇心を捨ててしまうと、残るのは後悔だけ。

 ある時、彼は「知りたいことが、不自由なくすぐに知れる時代に生まれてよかったよね」と話していた。

 そういえば、今月のVSはお休みだったか。

 

 年に数回くらい、瑞急線に寄られながら地元に帰りたくなるときがある。

 道中の知らない駅で降りて眺める海側の風景は、私にこの上ない幸せを感じさせる。

 今日はレンタサイクルを利用して、浜の散歩道を快適に進んでいく。

 移動した距離を忘れるくらいに、私の地図からは縮尺の概念が消えていった。

 

 スマートフォンが少しだけ揺れる。

 私は、ちょうど赤石の碑の辺りで自転車を停めた。

 

 彼からの文面は『良い一局にしましょう』と一言だけ。

 明後日から開幕する公式戦は、勝てばタイトルに挑戦できるという大舞台での直接対決だった。

 

 ふと顔を上げれば、まるで南国のようにヤシの木が並ぶ松江公園の駐車場が見える。

 やはり、私は晴れ女らしい。

 少しだけ休憩して、海側の日光と心地良く吹く風を全身で浴びてやる。

 

「——待ってなさい、三冠王!」

 

 ジャンヌ・ダルクの叫びが、播磨灘の海に溶けていく。

 

 

【完】