「群青色の研究」(後編)


ここまでで、コーヒーの3分の1ほどを飲み干した。

美南が掃除機をかけるために換気をしていたと思われるが、暖房が少しずつ効き始めて、リビングも温かくなってきた。

 

「——さっきな、ナギが面白いこと言うたんよ」

「なに?」

 

「時間があったから、赤根川から海の方に行ったんやけど、『ナギも海行きたい!』 みたいなことを話してて」

「今行くと冬だもんね、それはあかんわ」

 

「そうそう、冬は風邪ひくで、って言ったら、風邪ひいちゃうね……って。また、暖かくなったら皆で行こうか、となったわけだけども」

「近くは、海がいっぱいあるもんね。春に皆で海へ行く、大いに有りなんじゃない?」

 

「それがね……電車で行きたいんだって。海と同じ水色の電車の絵を描いてくれる約束もしたんだよ」

「なるほど、絵ということは私の出番。ナギに電車の絵を教えてほしいというわけね。でも、私は元の絵や写真が無いと、書けないと思うよ。絵はどこかで見たものじゃないと」

 

瑞急の特急は、紺色に薄めの金色。普通電車は、古い方が緑で、新しい方が明るめの赤。

時々見かける有料特急の「海日向」も、紺色が基本で、水色の面積はかなり少なかった。

JRの新快速や「スーパーはくと」も、外装は水色が主ではない。

 

「水色の電車か……考えてみたけど、なかなか思い出せないなあ」

「他の色でもいいけど、せっかくなら水色の電車に乗せてあげたいね。海が目的地とは限らないけど、その電車に乗車するために、皆でお出かけをするのはどう?」

「それは名案。仕事の道中に、ちょっと調べてみるわ。近くにあったら良いんだけど……」

 

美南は「水色の電車、見つけたら教えてね」と言って、残っていた自身のコーヒーを飲み干した。

 

「夏休みの自由研究みたいに、大作を仕上げてくるかもしれないもんね」

「……水色の研究ね!」

 

「これは上手いこと言った。まるで、名探偵シャーロック・ホームズの 『緋色の研究』 みたいやな」

「緋色の何とかは知らないけど、ホームズって探偵は知ってるよ。ワトソンって助手がいるんでしょう?」

「そうだね」

 

シャーロック・ホームズは、アーサー・コナン・ドイルが描いた長編小説シリーズに登場する名探偵。

変人の探偵と常識人のワトソンをバディとした相棒を、物語の書き手とする推理小説である。

 

変人の探偵ではないが、少し面白い愛娘の作品を、両親が相棒役としてサポートする。

何だか、不思議な感覚だ。

 

「ところで、今日の仕事はどこ行くの?」

「瑞急で、神戸の東の方へ。東灘駅付近の学習塾さんが僕の動画を観られたそうで、同じ建物の空きテナントを借りるから、そこで動画を撮るスタジオを構えないか、という相談らしい。良かったら、空き時間に自習室の生徒を観てくれたら嬉しい、とも話していたよ」

 

「学習塾って大きいところ?」

「よく駅前にあるような大手塾や予備校ではなくて、地域の学習塾っていう感じで、伸び伸びとやっているらしい」

「塾の雰囲気も海斗さんの考え方と合いそうで、良さそうね。これで、自室で動画を撮影することも無くなるから、少し悲しくもなるけど……」

 

どれほど有名な動画クリエイターも、個人の場合は自室をスタジオに構えていた経験があるはずだ。

専用の撮影場所や作業場所を確保できる、というのは、夢の実現に向けて大きな進歩だろう。

 

「人や環境がよほど悪くない限り、基本的に話は受けようと思う。空きテナントや塾自体の見学をしてみて、また美南に相談するね」

「了解、楽しんできてね」

 

美南に続いて、僕もコーヒーを飲み干した。

程良い温かさとなり、さらさらと体内に活力が取り込まれていく。

カップを持って立ち上がり、「今日もありがとう」と一礼をして、台所まで持って行った。

 

「それじゃ、ちょっと準備するね」

「はーい」

 

実質的な作業場となっている自室で、数十分ほどかけて一通りの準備を整える。

地元のFMラジオを聴きながら、デスクトップパソコンで作業を進めていく。

必要な資料をプリンターで印刷し、クリアファイルに封入した。

 

「よし、そろそろ行くわ」

リュックサックに荷物を入れて、全ての工程を終えた。

準備万端の状態で自室を出ると、玄関には美南が待っていた。

 

「昼は外食?」

「そう、塾の先生との話の流れによっては分からないけど、一緒に昼食をとるかも。良さそうなら、テナントの写真も撮ってくる」

 

「了解、ありがとう……忘れ物はないね」

「おそらく、大丈夫!」

 

普段よりも少しだけ上品な靴を履き、扉を開けた。

 

「行ってくるね」

「行ってらっしゃい!」

 

最寄り駅付近の交差点までは、緑色のカラーアスファルトで舗装された区間でもある。

ほぼ一直線の狭い道を進む道中で、数台の自転車とすれ違う。

同様に、徒歩の僕の進路を避けるようにして、後方から自転車が追い抜いていく。

朝のラッシュアワーが終わった時間のためか、郵便局や歯科医院の前には少しだけ人の流れが見えた。

 

浜国道の交差点を渡り、少し歩いた場所に改札が存在する。

駅長室はあるものの、現在は無人化されている。

最寄りの工場の名前が副駅名に付与されているが、各駅停車のみが停車する駅なので、日中の利用はさほど多くはない。

 

姫路方面行きのホームには向かわず、階段から地下通路を経由して大阪方面ホームへと移動する。

江井ヶ島(えいがしま)駅名物の地下通路は、地元の中学生が壁画に描いた絵が彩っていることが特徴だ。

近年のバリアフリー化の流れでエレベーターや橋上通路が新設され、上下線ホームの移動が分散されたが、僕は運動目的で階段を使用し、地下通路を経由することが大半となっている。

白地を塗った壁面に、海の生き物がポップな雰囲気で描かれている。

 

瑞急明石駅以西には、他にも地下通路の壁画アートが見られる駅があるらしいが、個人的には一番の駅アートだと思っている。

最寄り駅なので多少贔屓しているかもしれないが、通る人々を明るくさせるような、誇らしい風景だ。

家族で一緒に駅を訪れた際、娘がかなり楽しそうに絵を眺めていたことが印象的だった。

過去には、夢中になるあまり、電車に乗り遅れてしまったこともあったが。

 

そういえば、海水の泡や魚にも水色が用いられていた。

まさに、魚たちが棲息している光景に、ナギは水色の電車を走らせたいのかもしれない。

 

幼少期に空や海の色と認識していた色は、当時は「青色」と「白色」を混ぜた色だと認識していたと思う。

青といえば、若さや快活さ、爽やかさに満ちたイメージがあるだろう。

やがて、絵の具や色鉛筆で複数の色を混ぜたときに、水色や紫色の存在を知るのだ。

 

世の中には、白と黒の間に無限の色が広がっている。

群青色、青藍色、浅葱色、水縹に紺碧。

美南が見せてくれたイラスト資料集には、僕が知らない色の数々が記載されていた。

娘は長い人生で、多くの色と出会っていくはずだ。

色々な経験を積んで、色々な人や物と出会うことで、彼女は無限の可能性を得ていく。

父親として僕ができる務めは、こういう部分なのかもしれない。

 

『電車が通過します、ご注意ください』

 

自動販売機の隣にあるベンチに座り、列車を待つ。

通過メロディが流れ、紺色と金色の特急車両が過ぎ去っていくように思えたその瞬間だった。

 

水色の電車が、目の前を通過していく。

慌ててスマートフォンを取り出し、写真撮影を試みる。

通過した車両は4両で、中の方の車両にはサイクリストや自転車の姿を捉えることができた。

 

「じっ、自転車……サイクルトレイン!」

 

後で調べてみると、普段は姫路から赤穂までを結んでいる電車だそうで、この日は神戸方面への試運転を行っていたとのことだった。

列車が通り過ぎた後に画面を確認したが、手振れで画角がずれた写真だけが保存されていた。

技術力の圧倒的敗北である。

 

鉄道ファン——特に撮り鉄の方は、どうやって上手な写真を撮影しているのだろう。

もっと写真を上手く撮れるようになりたい。

写真を撮ることが好きな方は身内にはいないので、独学でどうにか勉強せねば。

 

江井ヶ島駅は、南側の播磨灘からの日差しが少しずつ晴れやかになっていく。

各駅停車の到着を待つ大阪方面ホームで、リベンジを誓う。

 

 

【完】