第3話 「車窓に映るもの」
特急の停車駅でもある西宮戎駅を通過した頃には、リーフレットを既に読み終え、私は無心で海側の車窓を眺めていた。
その頃、ようやく先頭車両にも車内検札が回ってくる。車窓が持つタブレットで着席状況を確認しているようだった。私の数列前に座っている2人席の方々が座席指定券を購入してなかったらしく、車内で「ごめんなさいね」と言いながら、逆らうことなく料金を支払っていた。緊張した雰囲気も少しあったが、男性車掌は笑顔で対応されていた。
「良いんですよ。ここからの旅路も、是非お楽しみください」
車掌の何気ない一言が、彼らを安堵させたのだろう。車内の雰囲気は再び和やかな雰囲気に戻った。
後ろを振り返った車掌は、タブレットを見ながら「良し」と指差し確認を行う。これで着席状況が一致したのだろうか、安堵しているようだった。
車掌が顔を上げると、彼の様子を見ていた1人席の私と目が合った。
「どうされましたか……何かございましたか?」
彼の声に私は驚きながら、言葉を返す。
「いえ、何でもないですよ……やっぱり快適ですね、海日向は。あっ、コーヒーも美味しいです」
「そう思っていただいて、嬉しいです。これから天気も良くなりますよ、眩しいくらいの晴れた空になるでしょう」
車掌が指差した窓の向こうは、何とも言えないほど曇った世界が広がっていた。
「何だか天気予報みたいですね、ありがとうございます」
彼は「ふふっ」と片手を口に当てながら、小さく笑みを見せる。
「海日向の窓に映るものは、全て本当のものなのです。風景も、もちろん人も……どうか、素敵な時間を送ってくださいね」
車掌の言葉の真意が分からないまま、彼の深々とした一礼を見て、軽い会釈をした。車掌が後方の車両へと戻っていた後、「ええ……?」と小声で呟く。
不思議な感情を抱いたまま、曇天の中を海日向は西へと進んでいく。
進行方向右側に見えるのは、六甲山だろうか。山と海の間が狭いことを改めて感じさせられた。この狭い空間を東西に、瑞急・JR・阪急・阪神の4路線がシャトルランを繰り広げている。
この事実もまた、不思議なものだ。
どんな経緯でこの状況が生まれたのだろうか、実に気になる。
脇浜駅を通り過ぎてすぐに海側の車窓から分岐した線路は、神戸空港方面への連絡線だった。
空港に向かう路線から、次はどんな行先で旅をしようか、と想像を巡らせた。
東京、名古屋、福岡の大都市はもちろん、北陸や東北、中国地方といった各地域にも興味がある。
国内を行きつくしたら、次は国外。台湾が良いなあ。
とにかく、美味しいものが食べたい。
美味しいものを食べて、リフレッシュをしたい。
海外渡航用のビザは持ってないけど、とにかく美味しいものを食べたい。
いや、それならば、近所で美味しいものを召し上がればいいだけなのでは。
そんな情けない結論に私が行きついた頃、車窓は突如、暗闇に包まれていた。
神戸市内の地下区間に入り、間もなく電車は三宮駅へと到着するはずだ。
もう一度我に返り、窓の外を見る。
海日向の車窓には、目の前にいる私が大きく映し出されていた。
赤らめた顔に、涙腺に溜まっていた涙。
下を向くと、その涙が1滴、2滴と零れていった。
先ほどの車掌の言葉を思い出す。
「海日向の窓に映るものは、全て本当のものなのです。風景も、もちろん人も」
恐らく、車掌の目は私の涙を捉えることができていた。
少し強がって「何でもない」と言ったものの、本当の心はまだ暗闇から抜け出せず、泣き出しそうになっている。
海日向の窓には、そんな私のありのままの姿が映っていたのだろう。
私は、曇天の中を一人で走っているのだ。
電車が再び地上を進む頃には、私の心は晴れているのだろうか。
窓側の方を向くと、漆黒の車窓に映る私がいる。
先頭車両では、三宮駅で数人の客が入れ替わった。
通路の方を避けるようにして、窓側をひたすらに眺めていた。
目を閉じて、周辺の声に耳を澄ませる。
その後に景色が薄くなり椅子へと意識が吸い込まれていったことに気が付いたのは、随分先の駅だった。
明石や高砂市を通り過ぎ、現在は、宇佐崎駅を通過したあたりだ。
海側の車窓は、神々しいほどの明るい青空に変貌していた。
降り続いた雨が止み、再び車掌のアナウンスが聞こえてくる。
「間もなく、飾磨です。お出口は右側です。網干・御津方面はお乗り換えです。当便の運行では、雨上がりの播磨灘にかかる大きな虹を目視することができました。海日向は、日々の暮らしの中で、非日常のひと時を演出する電車です。皆様の心にもどうか希望の灯を絶やすことなく、素敵な日々を送れますように。この先の旅路もお気をつけて、お過ごしください。本日は瑞急線、海日向をご利用いただきまして、ありがとうございました」
再び、海日向は姫路市内の地下へと潜る。
まさか、この電車は地下駅にしか停車しないのでは、と思った。
スマートフォンの路線案内アプリによると、あと数分で終点の姫路城前駅に到着するらしい。
私は前方を向いて、この電車を発つ身支度を整え始めた。
【完】