第1話「満天の星の下」
賑やかな繁華街を潜り抜け、瑞急京橋駅の改札にICカードをかざした。
終電の発車まであと数分。
僕の取り柄は、早く走ることと、写真を上手く撮ることぐらいしかない。
平日ダイヤの24時27分。
この京橋駅からは、2本の終電が発車する。
京阪電車の樟葉行「深夜急行」、そして瑞急の西宮戎行「急行」である。
今夜は、高校の友人と京橋の飲食店で久しぶりに集まって夕食をとっていた。
酒が合法的に飲める年頃になったからなのか、会話も弾み、時間は流れるように過ぎていった。
瑞急の終電の時間に合わせて、僕は帰路についたが、まだ何人かは飲み続けるらしい。
身体だけ、素晴らしい大人になりやがって。
「まもなく、24時27分発の最終電車、西宮戎行の急行が発車します」
唐突に流れて来た、聞き慣れないアナウンスに心は急かされていく。
急行は、夜にも走っていたんだなあ。
そもそも、西宮戎行きがあるなんて、知らなかった。
僕は、この時間帯の電車に乗る機会は初めてだったのだ。
「瑞急の車掌さんは終電の時にちょっと待ってくれるから大丈夫だよ」とその友人は助言をしてくれたが、やはり僕は終電に間に合うか心配になっていた。だが、エスカレーターを登り切った先で見えた京橋駅の風景は、普段と違う光景を呈していた。
都会のラッシュの喧騒から離れたこの場所では、ゆったりと時間が過ぎていくようだった。
「いえいえ、急がなくていいですよ」
車掌が落ち着いた声で、語り掛けてくれた。
「……有難うございます」
友人の話していたことが本当だったんだ、と安堵しつつ、僕は最後尾のロングシートに腰を下ろした。
ゆっくりと、急行の扉が閉まる。
同じ車両には、数人の人が居た。
学生はあまり居なかったが、仕事帰りだろうか、サラリーマンの姿は決して少なくはなかった。それでも、ロングシートの座席が半分ほど埋まるくらいの混雑だった。
「この電車は、西宮戎行、急行です。途中の停車駅は、南森町、梅田、尼崎市、武庫大橋です。次は、南森町です。地下鉄線はお乗り換えです」
僕はリュックサックからスマートフォンを取り出して、今日の出来事を友人とSNSを使いつつ振り返った。
次に、いつ集まろうか。
ご飯の味がどうだったか、とかの他愛もない話が主な話題だった。
もう数分前の話になるが、酔いが入っていたからか、あまり記憶は定かではない。
だが、少なくとも楽しかったことは鮮明に覚えている。
片親の家庭で、その親もずっと仕事で家に居なかったから、家族の温もりを直接感じることは無かった。ただ今夜は、それを埋めてくれるような温かい時間を過ごすことが出来た気がした。
☆
瑞急梅田駅を過ぎたあたりで、ロングシートの座席はほぼ全て埋まり、立ち客も少しずつ見られるようになっていった。
市内の鮮やかな夜景を過ぎ、淀川を渡ったあたりで、少しずつだが大阪湾の向こう側に星々の光が眺められた。
「本日も瑞急をご利用いただきまして、有難うございます。この電車は、西宮戎行の最終急行です。次は尼崎市です。昆陽池行の最終電車はお乗り換えです。尼崎市の次は、武庫大橋に止まります」
僕は最寄り駅が西宮戎だから、特急は梅田まで1駅で行くことが出来る。
だから、尼崎に停車する電車に乗ることも時々しかなかった。
この最終急行は、そこそこ人が多い、主要な駅には全て停車するのだろうか。
……だとすれば、何故大庄や津門には止まる「準急」にはしなかったのか。
少しでも、梅田の発車時刻を遅くしたいからなのかな。
もしかすると、最終急行には、瑞急の思いやり的なものが投影されているのかもしれない。
僕は、不意にそう思った。
僕が座るロングシートの対面には、仕事を終えて疲れているであろう大人がスマホゲームに熱中していたり、ふわふわとした雰囲気で本を読んでいる女性も居た。
何か、自分だけの世界に入れたら、どれだけ楽なんだろう。
逃げたとしても、そこはたった1人だけの下宿先。
誰にも、頼ることは出来ない。
友人にだって、あまり頼りたくはないし。
部活も続かなかったし、勉強だって相変わらず普通くらいだ。
不規則な生活にならないように、今でも武庫川沿いを時々走ることはあるが。
急行は尼崎市に着くと、扉を開けた。
沢山の客が、向かい側のホームの電車や階段へと吸い込まれていく。
最終列車は終点の中山寺まで行かず、車庫のある昆陽池までしか行かないのか。
再び急行が扉を閉めると、もう乗客は3割程度になっていた。
「次は、武庫大橋です。武庫大橋の次は、西宮戎に止まります」
☆
高架線から見える大阪湾の車窓と、SNSでの会話が盛り上がりつつあるスマートフォンの画面を往復させながら、僕は暇を持て余していた。
すると、見惚れていたはずの深夜の車窓は、大きな建物の陰へと隠れてしまった。
「……どうしよう、もう戎に着いてしまう」
目の前には、本を読んでいたはずの女性がぐっすりと眠ってしまっている。
自分の世界に入るのは家に着いてからにしてほしい、なんて一瞬思ってしまったが、もう終点駅の扉が開いてしまった。
「――起きてください、お姉さん!」
普段は決して出さないような声を出しつつ、彼女の肩を揺らした。
やがて彼女は目を覚まして、ずれていた眼鏡を自分で元に戻していた。
「えっ、ここは何処ですか」
「戎です、西宮戎です!」
彼女は僕の声を聞いて、周りを見渡す。
24時44分。
間違いなく、西宮戎駅。終点だった。
「お姉さん、もう降りますよ」
僕は、そう言って彼女に手を差し出した。
彼女が手を掴んだのを見て、急行を降りた。
僕らは駅のベンチに座り、少し休むことにした。
先ほどの急行は、中に誰も居ないのを車掌が確認した後に、引き上げ線へと向かっていった。
「……顔色悪そうですね。ジュースでも買いましょうか」
「だ、大丈夫ですよ」
「そうですか、では先に失礼します」
僕は先にベンチから立ち上がり、後ろを振り返った。すると彼女は、突然僕のリュックサックの紐を掴んだ。
何をするんだろうと様子を見ていると、鞄の中から、1冊の本を取り出した。
「せっかく私を起こしてくれたので、感謝の気持ちも込めて、この本をあなたに貸し出させてください」
ブックカバーが丁寧に被せられたその本は、やや古くなっていたが、それでも彼女から大事に扱われてきたようだった。
「良いんですか、この本を借りても」
彼女は、笑顔で自分の方に「はい」と頷いた。
「でも、どうやってあなたに、この本を返せばいいんでしょうか」
「私は毎週、この曜日にこの電車に乗っています。だから、その本を返す時には、この急行の1番後ろの車両で、会いましょう」
何だか不思議な雰囲気を感じさせる彼女は、白いワンピースに身を包まれていた。
「……はい。自分探しの良い機会になりそうなので、是非とも読んでみます」
日付が変わったから、今は火曜日の深夜1時くらいだろうか。
その時は、まだ思いもしなかった。
最終急行での彼女との出会いが、僕の未来を大きく変えてしまうことになるなんて。
第2話に続く