第4話「小さな国と大きな列車①」(第3話はこちら)
14時31分。
京橋行の準急が、西宮戎駅を発った。
「ご乗車、有難うございます。この電車は、京橋行の準急です。停車駅は、尼崎市までの各駅と、梅田、南森町です。途中の尼崎市で普通電車に連絡します。次は津門(つと)です。阪急線はお乗り換えです」
2分前に発車したばかりである特急列車の混雑は言うまでもないが、この準急も立ち客が少し出る程度の混雑だった。
瑞急の特急は、西宮戎を出ると梅田まで無停車という早さが売りになっている。
しかし、今日の目的地は大阪市内ではない。
「今日は、何処へ行かれるんですか?」
ロングシートの端に座る深沢さんが、僕に問いかけた。
「……尼崎で乗り換えて、昆陽池(こやいけ)へ行こうと思います」
すると、彼女は「昆虫館がある所ですね、昔に訪れたことがあります」と返した。
如何にも好奇心のありそうな表情を示していて、本当に分かりやすい。
「良いですね、僕も興味があります。時間がありそうなら、是非とも行きましょうか」
☆
昆陽池駅の改札を抜けたのは、15時過ぎだった。
高架化された駅舎に整備されたばかりの駅前デッキからは、駅名の由来となった大きな池や、瑞急の車庫、駅前広場を十分に望むことができた。
「ねえねえ、高崎くん」
先にデッキを歩こうとした時、深沢さんが声を上げた。
僕は「何でしょう?」と疑問を言いつつも、彼女へと駆け寄った。
「向こうの池に、島みたいなものがぽつぽつと浮いているような気がします」
彼女が指差したのは、昆陽池の方だった。
確かに、僕の目にもその島々が捉えられた。
「あまり鮮明には見えないですが、大きい島と小さい島が何個か集まって、日本列島みたいに見えますよね」
「そう言われると、日本っぽいですね……。そういえば、この辺りも随分と綺麗になりましたね。高架が出来るまでは、あの池を上から見ることは今まで無かったですし」
深沢さんは、何だか感慨深い様子だった。
「それでは目的地へ行きますか。このデッキと繋がっているので、楽々です」
「はい」
10月の昼間は心地の良い気候で、日差しもあまり眩しくはなかった。
駅前デッキには屋根も付いた部分があり、雨に濡れることなく移動することができる。
駅前直結のショッピングモールの中へと入った。
冷房が少し効いていたようで、深沢さんは数回くしゃみをしていた。
「深沢さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫です……何とか」
僕はフロアマップを指で差しながら、説明を加えた。
「ここの3階に、僕の父さんおすすめの古着屋さんがあるんです」
「古着屋さんですか、良いですね!」
エスカレーターで、1つ上の階に進む。
フードコートの横を通り過ぎると、「AWESOME AUTUMN」と書かれた看板が見えてきた。
本日の目的地である。
「今日の朝ご飯を作ってくれたお礼に、買える範囲の古着を深沢さんにプレゼントしたいんです。もうすぐ冬なのに、ずっと白いワンピースを着られているので、寒そうかなと思いまして。金欠の大学生で、本当すみません……」
彼女は看板を見上げたまま立っていたが、やがて僕の方を向くと「いえいえ、有難う」と返した。
「私は、この店の雰囲気が結構好きなので、素直に嬉しいです。2つ年下の子に古着を買ってもらうのは、ちょっと恥ずかしい気持ちもしますが……本当に、遠慮なく選んでいいんですね?」
深沢さんは苦笑ながら、僕に語りかけた。
「はい……あんなに美味しいご飯を作ってもらったので」
僕は思わず、財布の紐を気にし始めた。
「ところで、私が服を選んでいる間、高崎くんは何処に居ますか?」
「さっき通ったフードコートで、座っておやつを食べていると思います」
彼女は「分かりました」と、首を縦に振っていた。
「お釣りがあれば、後で僕に渡してください」
財布から1万円札を彼女に手渡し、僕は手を振った。
「……それでは、また後で」
深沢さんが店内に入っていったのを見て、フードコートへと向かった。
彼女は、軽くスキップをしているような足取りをしていた。
きっと、心から楽しんで衣服を選ぶはずだろうと、僕は安堵した。
ふと視界に映ったファストフード店でコーヒーを注文すると、僕は空いていた座席に腰を下ろした。
平日の昼間にも関わらず、高校生くらいの生徒たちが談笑したり勉強したりしている様子も見える。
きっと、定期テストのある時期なのだろう。
僕も少しずつではあるが、卒業論文を書き進めている。
その論文の最終提出は、来年の1月が締切だった。
テーマは、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』だ。
谷川の作品の中では、代表作クラスにあたる詩である。
僕にとっては、入学時から考察を深めたいと思っていた内容だったため、構想は元々完成しつつあった。
幼い頃から、神戸で父親との2人暮らしを送っていた。
僕が小学生だった時、父親は家を出て、関東の方へと発った。
後から聞いた話だが、「大切な仕事がある」とのことだった。
以来、数年間に渡って顔を見たことが無い。
その後、僕は父親の両親――つまりは大阪の祖父母の元へ引き取られて、少年時代の日々を過ごした。
とはいえ、祖父が病に倒れてからは、祖母も祖父の世話に付きっきりになってしまい、僕を放置してしまうことも多々あった。
やがて、兵庫県内の大学に進学した際に、僕はこの西宮で下宿生活を始めた。
ちょうどその頃に祖父も亡くなり、祖母も後を追うようにして逝ってしまった。
あの祖母は、どこまでも祖父を追っていくのか。
学校での友人関係には幸い恵まれてきたから、前を向いて生きていくことができた。
一方で僕は、20数年の人生の中で家族に恵まれず、家庭では孤独を味わっていたのである。
孤独な自分だけの国。
小さな世界だった。
逆に言えば、この「孤独」という言葉ほど、僕自身を端的に表すものはないだろう。
文学部に入学した直後の僕は、まさにそんなことを考えていたのだった。
「――あ、そうだ」
僕はリュックサックの中から、本を一冊取り出した。
その本は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』。
深沢さんが先日貸してくれた、文庫版だ。
温かいコーヒーをほんの少しだけ、口に含ませる。
そのまま僕は、本に挟んでいた栞を抜き取った。
☆
丘の頂上に辿り着いたジョバンニは、天気輪の柱の下で寝転んでいた。
汽車の音が聞こえてくる。
車両の中で団らんしてしていた人々を見ると、悲しい気分に襲われた。
遠くの空の星を眺めながら、昼間の授業のことを思い出す。
突然視界が明るくなり、ジョバンニは銀河鉄道に乗車していた。
向かい側の席にはカムパネルラも座っていた。
親友のカムパネルラとの談笑や、車窓の銀河を見ているうちに、愉快な気持ちに包まれていくジョバンニ。
大学士たちや鳥捕りなど、愉快な人物が登場していく。
車掌が登場して、切符を確認する。
なんと「どこまででも行ける切符」だそうだ。
僕の脳内は、まるでこの物語の世界へと吸い込まれていくようだった。
でも、何だか腑に落ちない点もある。
カムパネルラの考えていることが不明すぎて、かなり難解だ。
確か、小学生の頃に読んだ宮沢賢治の作品も、なかなか難しかった記憶がある。
母親が自分を許してくれる、か……?
カムパネルラは、何か悪い事でもしていたのだろうか。
物語の中では、列車の扉が開いた。
向こうから誰かがやってくる。
「――お待たせしました!」
その声を聞いて顔を上げると、深沢さんが口を押さえて笑っていた。
「な、なんでそんなに笑うんですか……」
「数分前から向かい側に立っているんですけど、全く気付いてくれなくて。どれだけ本に集中してるんですか、とても物語に熱中しているみたいです」
「それは失礼しました。でも、この『銀河鉄道』はなかなか面白いです……あっ、すみません。そちらに座ってください」
深沢さんは、持っていたバッグと紙袋を空いている椅子に置いた。
結んでいたはずの長い黒髪を、下ろしていた彼女。
カジュアルで、クールな印象のあるベージュのコート。
中に着ている服は、ワンピースと同じ白色。
紺色のズボンが、スタイリッシュな雰囲気を演出している。
見た目の年齢が、一気に大人らしくなったようにも見える。
彼女は、荷物を置いた隣の席へと座った。
「今日は本当に有難うございます……とても暖かくて、冬でも過ごしやすそうです」
「いえいえ、それよりも、この服ってめちゃくちゃ格好良いですね」
「そう言っていただけて、嬉しいです……お釣りも渡しておきます」
深沢さんは、バッグの中に入っていた財布からレシートと代金を出して、テーブルの上に置いた。その間に僕は、本を閉じて栞を挟んだ。
「あっ、有難うございます」
「この後はどうしますか、高崎くん」
「そういえば、昆虫館に行く予定でしたね」
僕はスマートフォンの画面を見て、時刻を確認した。
午後の4時54分。
「早いですね、もう5時前だ……」
「すみません、私が服選びの為に長い時間もかけてしまって」
「いえいえ……僕も『銀河鉄道』に、ハマってしまったので。ちょっと心配なので調べてみます」
「有難うございます……余りにも長い間、店に居たらしくて、店員さんに声をかけられてしまったくらいなので、私は」
僕は画面を指で操作しながら、その内容を読み上げた。
「入館受付は4時までみたいです。しかも、毎週火曜日は休館日だそうです」
「どうしましょう。時間も中途半端なので、今から西宮へ帰るのも……」
「ちょっと休んでから考えましょうか」
僕は、残っていたコーヒーをゆっくりと飲んだ。
ホットコーヒーとは思えないほどに冷えてしまっていた。
でもその風味は、何一つ変わっていなかった。
第5話に続く