第6話「幸運を祈ります」(第5話はこちら)
今年の大晦日は、土曜日だった。
秋から気温が大きく低下し、いよいよ数日後には箱根駅伝が到来する。
関東の大学生たちは今頃、箱根駅伝に向けて備えているのだろうか。
何かの目標を持って陸上へ取り組むのは、本当に久しぶりだった。
深沢さんが伊丹で僕に与えた「福男になる目標」は果てしなく遠いものだが、それでも目的地が見えずに走っていくよりも、遥かに走りやすかった。
彼女は相変わらず、毎週火曜日に僕の家へ訪れて、手作り料理を振る舞ってくれていた。
そのために、余っていた鍵のスペアを彼女にも預けていた。
僕が陸上をしているからなのか、彼女は「図書館に行って勉強した」そうで、実際に僕自身のタイムも良くなりつつあった。
僕は21歳で、深沢さんは23歳。
2歳年上の彼女は、僕にとってはお姉さんのような感覚だった。
幼い時から兄弟が居なかったからか、とても満たされたような気持ちになるのだ。
卒論も片付いたし、内定も出たから卒業後の進路も決まった。
毎週一緒にご飯を食べたり、何処かへ紅葉を見たり、と楽しい日々だった。
★
目を覚ますと、深沢さんが既に起きて僕を待っている。
僕も、新年初めて彼女に会えるこの日を待ち望んでいた。
「――高崎くん、明けましておめでとうございます!」
今日は、1月3日。
2017年で最初の火曜日であった。
「深沢さんも、新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくです」
彼女も「こちらこそ宜しくお願いします」と、深々と頭を下げていた。
すると深沢さんは、テレビのリモコンを操作し始めた。
「……いや、そんなことは別に良いんですが、テレビで箱根駅伝の復路が放送されているみたいです」
「えっ、今はどこら辺ですか」
「今は山を下り終えて、もうすぐ1位の青山学院がタスキをちょうど渡しました。青山学院って、凄く強いんですね」
「そうなんですか、昨日観た時は青山と早稲田の差が1分も無い接戦だったので、この展開は驚きました。青山は2連覇中なので、最近はとても勢いがありますね」
テレビ画面には、山下りの6区でごぼう抜きを見せて区間賞争いを演じている中位の選手が、アップで映っていた。
「これって、区間賞だけじゃなくて、区間新記録も狙えますよね……」
「何だか行けそうな気配がします。頑張れー!」
深沢さんは画面から目を離さずに声援を送っていた。
僕も負けずに、「頑張れ」と声を上げる。
そして、その選手が従来の記録を更新すると、僕たちは思わず抱き合って喜んでしまっていた。
数秒お互いを見つめ合わせて、何だか恥ずかしくなったからなのか、僕は彼女の手を解いた。
「……す、凄いですね、陸上って。一生懸命な人を見ると、心を激しく打つような感じがします」
僕は彼女の言葉を聞いて、嬉しさの感情が溢れそうになっていた。
テレビの画面に映っているのは、僕とは全く関係ない選手なのに。
「僕もそう思います。陸上って、魔法みたいなものなんです」
「そうですね……だから、高崎くんも一生懸命走って福男になって、私の心を打ってくださいね。ちょうど10日は火曜日なので、深夜急行に乗って応援しに行きます」
「はい、とても嬉しいです。めっちゃ頑張ってきます! ところで、以前伊丹で話した約束は覚えていますか?」
彼女は「一体何のことでしょうか」と一度忘れたふりをしていたが、すぐに微笑むと、こう返した。
「――あの、一番福になったら何でもする、みたいなやつですか」
「そうです。その約束についてなんですが、一番福になったら、深沢さんの家に行くというのはどうでしょうか……?」
深沢さんは「絶対引くよ、止めておいたほうがいいと思います」と冗談めいた口調で笑っていた。
「それでも良いんです。もっと仲良くなってみたいんです……僕は、深沢さんが大好きなので」
「ははは、それって、まるで告白みたいな言葉じゃないですか」
恥ずかしくなった僕は、思わず赤い蒲鉾を箸で掴んだ。
「もう、どう捉えても良いですよ……あっ、あんな所に美味しそうな手作りおせちが」
「いえいえ、これは近所のスーパーで買ってきたものなんです。たまには、私も手抜きさせてください。だって、今日はお正月なんですから」
僕はその蒲鉾を、既に口の中へと入れてしまっていた。
「あれ……美味しい。スーパーのおせちって、こんなに美味しいんですね」
「私も一口いただきます」
深沢さんが白い蒲鉾を食べ始めたので、僕は食卓に置いてあったコップにお茶を注いだ。
「どうですか……蒲鉾のお味は?」
「はい、とても美味しいです!」
僕は「それは良かったです」と言って、お茶を飲んでいた。
「――ところで、さっきの告白みたいな言葉への返答ですが、来週の福男選びが終わってからでいいですか。ちょうど私の家に行く時に」
口の中のお茶を吹き出しそうになったが、辛うじて堪えることに精一杯だった。
今考えてみると、この時のおせちが彼女の手作りでは無かったのに美味しかったのは、たんに料理自体が美味しかったからだけではない理由が有ったのではないかと思う。
答えは、極めて単純で明快だ。
仲の良い誰かと、こうやって他愛もない話をしながら、おせちを食べたことが少ないからだ。
そして、その相手が深沢さんだからなのだろう。
「――大丈夫ですか、ぼっとしちゃって」
彼女の声がする。
「だ、大丈夫です。なんとか」
「意識が飛んで何処かへ行ってしまったのかと思いましたよ、早くご飯を済ませましょう。この駅伝が終わったら、初詣に行っておみくじでも引きましょう。大吉が出るまで、ずっと繰り返して……」
この楽しい時間が、永遠に続けばいいのに。
僕は、迷わず首を縦に振った。
「はい、幸運を祈りたいです」
第7話に続く