第7話「塵も積もれば山となれ」(第6話はこちら)
前日の午後10時頃から、くじ引きに参加するための受付が行われた。
受付開始の約30分前に西宮神社の駐車場へ到着したが、その時間でも既に1000人ほどの人が居た。
くじ引き自体は先着1500人しか参加できないので、無事に参加は出来る形になった。
防寒対策を入念に行ってはいたが、冬の夜の寒さは相当だった。
小雨が降る中、深夜0時過ぎから抽選は始まる。
福男になるためには、108人しか入ることの出来ないAブロックの前方の場所を勝ち取らなくてはいけない。
暗い夜空に「赤!」「青!」と大きな声が響く。
Aブロックは赤色、Bブロックは青色のくじとなっているそうだ。
この2色のいずれかを引いた人々が、別の場所へと誘導されていく。
一方で、外れのCブロックを引いた人々は早々と解散し、後に行われる「走り参り」へと備える人も多く居る。
この「走り参り」は、福男は目指さないが走って参拝したい人々が行うもので、開門の前に列に並べば大丈夫だそうだ。
4つ前の人が「青」を引いて以来、3人連続で外れが続いている。
いよいよ、僕の番だ。
僕は、恐る恐るくじを引いた。
「――あっ、赤だ、赤です!!」
くじの番号自体は108人の中の、65番だった。
三番福以内を目指すことを考えれば、あまり良い位置ではない。
しかし、見事にAブロックの立ち位置が得られたのだから、随分とツイている方だろう。
少なくとも、BブロックやCブロックよりも良い位置であることは間違いない。
先週、箱根駅伝をテレビで観戦した後に、大吉が引けるまでおみくじを引き続ける為だけに、深沢さんと神社巡りを敢行した。
5回全て「中吉」という半端な結果だったが、小さな福が山ほど重なればこういうことも起こり得るのだろう。
なお、彼女のおみくじの結果は、凶、小吉、凶、凶、吉と、なかなかの悪運だった。
★
1月10日、火曜日。
朝6時の開門に向けて、ウォーミングアップや神社の儀式を済ませる。
早朝にも関わらず、神社内は人だかりが絶えず密集していた。
深沢さんは例の深夜急行に乗って、この西宮へと駆けつけているそうだ。
テレビ局などの報道陣も多く来ており、気象予報士と数名のスタッフが、大きな温度計のセットの周辺で中継の準備をしていた。
前方から6列目のスタート位置で、僕は足を止める。
今年のコースは、およそ230メートル。
事前に数回現地へ訪れていたが、カーブや石畳などが多く滑りやすくなっている印象だった。
加えて、数十分前まで降っていた小雨が、コースの難易度を高めている。
報道陣が「あと1分」とカウントをする声が聞こえてくる。
僕は、小さく足踏みをした。
この数か月の日々が、不意に思い出された。
瑞急の深夜急行で初めて対面した、読書家の彼女。
白いワンピースに、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の文庫本。
彼女が家に来た時の、シャワーの音。
昆陽池のショッピングモールのフードコート。
伊丹で見た、天の川のような夜景に飛行機が飛び交う景色。
箱根駅伝を一緒にテレビで観戦したことも、なかなか大吉が引けずに笑い合った時間も。
そして、美味しいご飯を食べながら話をしている時も。
毎週火曜日は、深沢さんの日。
今週も良い日でありますように。
もう何も考えない。
今日は、走ることを楽しもう。
風に吹かれて、後は全力で走るだけだ。
ドンと大きな音がして、歓声が鳴る。
きっと、太鼓の音だろう。
重い赤門が反対側からこじ開けられて、レースが始まる。
「開門!」
僕は心臓の辺りをぼんと一度叩いてから、足を進め始めた。
一斉にスタートを切り、右斜めの方向へ向かう参加者。
目の前には、前を走るランナーたちを視界に捉えることが出来た。
天秤カーブと言われる難所を、大きく曲がっていく。
地面がここから石畳へと変化する。
すると、不思議な出来事が起こった。
僕の視界から、ランナーが消えていく。
一人、また一人。
コースは合っているんだろうか。
ついに視界には、誰もランナーが映らなくなった。
本当は後ろを振り返って、確認したいくらいだった。
何に怯えているんだろう……一人で。
でも、後ろを振り返るのも、もう怖かった。
僕に今出来るのは、ひたすら前へと足を進めること。
ただそれだけだ。
長い直線を越え、減速しつつ左へと曲がっていく。
ゴールに位置する本殿が少しずつ見えてくる。
大きな楠が視界に現れ、いよいよ魔のカーブへと差し掛かる。
楠の右側を通り、僕は直角に大きく曲がる。
もう、目の前には誰も居ない。
もしかすると僕には見えていないだけなのかもしれない。
きっと、ゾーンに入っているのだろう。
油断をしそうになった時だった。
左足が突如軽くなる感覚がする。
そのまま最後の、木製のスロープを駆け上がる。
3人の神主が見えてきた。
最後まで全力疾走だ。
確かに両目で捉えていたはずの景色が、突然崩れ落ちる。
僕の視界が大きく揺らいだ。
一瞬にして、目に見える全てが、雨に濡れた地面へと変貌を遂げた。
誰かが、僕を抱きかかえる。
足が痛い。
左靴が脱げていた。
「……あの、大丈夫でしょうか?」
僕は、顔を上げて「はい」と呟いた。
あの声の正体は、神主だった。
「おめでとうございます。よく頑張りましたね」
神主は、指でピースサインを作っている。
思わず僕も、出来る限りの笑顔を返していた。
第8話に続く