第9話「神様がくれた②」 (第8話はこちら)
今週も火曜日の朝は、深沢さんが作ったフレンチトーストで幕を開けた。
しっかりと調味料がパンに絡んでいて、美味しかった。
3か月もの期間にわたって毎週火曜にご飯を作っていると、僕の好きな味付けや料理を熟知しているのだろう。
もはや何を作っても、美味しいとしか言えない。
僕にも、彼女の家事力が欲しかった。
時間に余裕を持って、朝の11時過ぎに家を出ると、僕と深沢さんは最寄りの瑞急西宮戎駅へと向かった。
「いよいよ今日ですね、深沢さんの家に行くのは」
僕がそう言うと、彼女は冗談めいた雰囲気を出していた。
「……あんまり期待しないでくださいよ、絶対後悔しますから」
駅の券売機で深沢さんが切符を買うのを待ってから、僕は改札にICカードを触れた。
「今日は、どちらの駅まで行きますか?」
「東灘(ひがしなだ)です」
駅構内のエスカレーターを上がりながら談笑している。
「東灘ですか、六甲ライナーとかが乗り換えられる、あの駅ですね」
「はい、あの駅の近くにある御影(みかげ)あたりが、私の地元なんです」
「なるほど、それなら特急で行きますか?」
「いえいえ、私は空いてる方が好きなので、各停で座らせてください」
高架駅のホームに降り立つと、ちょうどホームに普通電車が停車していた。
普通や準急は、後に発車した特急と西宮戎駅で接続し、その特急に追い抜かされる。
僕は深沢さんとともに、普通電車のロングシートに座った。
なんとも微妙な距離感だったからなのか、彼女は「ちょっとだけ、寄ってもいいですか」と言って近づいてきた。
「あっ、どうも……」
それは「ちょっと」どころでは無かった。
距離が無い、と言っても差し支えないような状況だった。
特急が向かい側のホームに停車し、沢山の乗客を扉から放出していた。
ホームの乗車位置で列を作っていた乗客は、流れるように特急に吸い込まれていく。
「たった数分の違いなんですけど、各停の方が一緒にいる時間が長いじゃないですか」
「は、はい……」
「その一分一秒が私にとって、すごく貴重で、かけがえのないものなんです。人間なんて、いつ死ぬかわからないですから」
「そうですね、本当にそう思います。死んでも現世に未練が残る人も、きっと居るでしょうから。胸を張って、満足して大往生を成し遂げられた人間なんて、なかなか居ないはずですし」
向かいのホームの特急の扉が閉まった。
駆け込み乗車をしようと階段を駆け上がっていた乗客が、階段を上り終えたところで列車を見送っていた。
「――各駅停車明石行き、まもなく発車です。扉が閉まります!」
唐突に彼女が駅員さんの真似を始めたので、僕は笑ってしまいそうになった。
それも、言い終えたタイミングで扉が閉まるだなんて。
「深沢さん、何ですか……突然」
「いや、高崎くんと居るとなぜか楽しくなっちゃうんです」
「なるほど、それは嬉しいです」
11時22分。
定刻通りに、普通電車は西宮戎駅を発った。
特急なら7分、各駅に停車する普通や準急なら9分間の短い旅路だ。
やっぱり深沢さんは、少しだけ変わってる。
電子レンジの使い方も知っていない。
スマートフォンどころか、携帯電話すら持っていない。
今時のコンビニの品揃えに感動したり。
いや、品揃えに関しては僕も同じ気持ちを抱いているし、関係ないか。
それでも料理が上手だし、僕の好みを知っている。
まるで、僕に関するあらゆる情報を知っているかのように。
確かに彼女は、出版社勤務だそうだ。
だから知っているかと言われたら、少し違う気もするが。
何とも不思議な人間だ。
でも、不思議に包まれたその彼女は、気になる存在だ。
僕の心を引き寄せ、時には狂わせる。
★
東灘駅で普通電車を降りた後は、地元出身民の深沢さんが僕を道案内してくれた。
彼女が初めに向かった先は、やや大きな神社だった。
「じゃーん、弓弦羽(ゆづるは)神社です!」
「えっ、すごい名前だ。なんか、テレビのスポーツ番組で観たことあるかも」
「そうですね、ヤタガラスがシンボルの神社ですから。他にも、名前に弓が入っているから、弓道や楽器の好きな人がよく来るみたいです」
僕は、地元民の知識に圧倒されるばかりだった。
「高崎くんは、神功(じんぐう)皇后を知っていますか?」
「ジングウ、コウゴウ……僕なんかには、聞いたことない名前です」
「昔の天皇の皇后らしいんですが、その人の出来事が由来となって、弓弦羽や六甲山の名前がつけられたようです」
「深沢さんは、いっぱい知ってますね……物知りですよ」
「いえいえ、本が好きだったので、よく図書館とかに籠っていたので」
「そして此処が、手水舎(ちょうずや)です」
深沢さんが指差した先にあったのは、小さな屋根があった。
彼女は慣れた手つきで柄杓を使いながら、「こうするの」と説明を加えてくれた。
手渡された柄杓を使って、僕も手を清めた。
「この方法で大丈夫なんですね?」
「はい、正解です」
拝殿でお参りをした後、僕たちは後ろに振り返って階段を下りていく。
「――ところで、以前話していた、深沢さんの家というのは?」
「ああ、家ですか……家以外にも告白みたいなことも話してましたね」
「はい。告白云々はもう良いので」
今まで楽しそうに振る舞っていたはずの彼女は、何故か困った様子を見せながら、僕にこう告げた。
「すごく悩みましたが、告白みたいな言葉の答えはノーです」
「……はい」
「それと、今の家は実質的には此処みたいなものなんです。元々住んでいた家なんて、ずいぶん前に無くなってしまいましたから、跡形もなく。ほら、あそこに見えるでしょ」
彼女の視線の先には、阪神・淡路大震災の慰霊碑があった。
慰霊碑の前では、礼服を着た男性が手を合わせているようだった。
男性は涙が止まらない様子で、ただ慰霊碑の方を眺めていた。
そういえば、今日は1月17日。
関西人としては忘れられない、そして忘れてはいけない日だ。
彼女が突然、僕の左腕を掴んだ。
「――ごめんね、少しだけ走ってもいい?」
僕は「はい」の返事を何一つ言い出せずに、ただ足を動かしていた。
何も分からずに、ただ駆けていく。
大鳥居の下を、全力で駆けていく。
第10話に続く