☆「祭のあと」前編は、こちら
カヤの前にも、僕と同じ料理が運ばれてきた。プロ野球の試合が混戦で盛り上がっている中で、僕たち二人の他雑談話も加速していた。最後の一切れのフレンチトーストを食べ終えたときに、カヤは青いリュックサックから本を取り出した。たしか、コーヒーは3分の1くらい残っていたと思う。
「はい、貰ってきたよ」
そう言って僕に手渡したのは、先ほどの学園祭のトークショーで仕入れたという『深夜急行の夜』の1巻の単行本だった。
「おっ、別に良いのに……ありがとカヤ、貰っておくね」
「葵、本のページ、パラパラとめくってごらんよ」
僕が単行本を表紙から数枚めくり確認すると、白紙のページにサインが書かれているのを発見した。
「サイン入ってるやん、すご!」
「えっへん、しっかり頑張りましたよ……私の分もあるから2冊やけど」
「カヤさんえらい」
ハナタカのカヤを棒読みで褒めると、「めっちゃ適当に褒めるやん」とツッコミが返ってくる。ツッコミの速度が早いと、ボケる側としては非常に助かる。何より、心理的に居心地が良い。もう3年ほどの付き合いになるが、正直ずっと一緒に居てやりたいくらいだった。
全部で10分ほどだろうか、例のトークショーの話を聞かされたのは。一番印象に残っていたのは、本の作者さんが倭州大学を卒業ではなく、色々な事情で中退されていたとのことだった。「過去の自虐ネタを、あれだけ上手に昇華させられるなんて凄いよね」とカヤは話していた。『深夜急行』の本の中身は、実話をもとにした部分が半分、オリジナル要素も半分入っているのだという。まるでビブリオバトルのようなカヤの熱弁に、とりあえずは本を読んでみようかなと思うことができた。まさか、ママがこの本を読んでいて、積極的に話に入ってくるとは思わなかったけれど。
「いつか、葵もこの本読んだら近場で卒業旅行行こうよ、聖地巡礼」
「お金ないから、近場なら有りかも。阪奈電鉄はよく使うけど、瑞急なんてあまり乗らないし、乗ってみたいな」
「よし、決まりね。それじゃあ、あと一つだけ決めよ。私たちのこれからのこと」
「僕たちの?」
カヤが「うん」と呟くと、場が少しだけ厳粛な空気に包まれた気がした。店内のFMラジオからは、優しい曲調のバラードが流れている。
「あのさ、私たちサークルでコンビ組んどるやん?」
「うん……そりゃ、もう長いことだけど」
「サークルは、今日の学祭で引退。でも、コンビはこれからも継続したいねん」
「ということは、お笑いの方よね?」
「友達としても、お笑いの相方としても。つまりは、その両方かな。私たちは大学を卒業したら、間違いなく何処かに就職する。私は地元の京都に。葵は奈良生まれやけど大阪市内だったっけ、就職先のところは」
僕は「うん」と頷く。
確かに、僕は内定先の企業が大阪市内の出版社で、おそらく春からも阪奈電鉄で通学する形になりそうだ。
「それなら良かった。大阪と奈良やから、お隣やね。近くて遠い、みたいな」
「うふふ、何処かのコンビニのキャッチフレーズかな……ところでさっき、『お笑いと友達の両方で』みたいなこと言ってなかった? ということは、カヤとまた漫才を出来るの?」
「うん、私も一緒にやりたいな、これからも葵と」
「嬉しいなあ、僕ももっとたくさんの人を笑顔にしてあげたい。またネタ書きたいね、いっぱい相談しよう、ネタ合わせもしたいな」
カヤは透き通るような笑顔で、首を縦に振っていた。
「うん、時々だけど。多分仕事で忙しいだろうから電話でもいいし、たくさん練習しようね」
「——ねえ」
そう言って窓側のテーブル席でカーテンの向こう側を見つめていたのは、カヤだった。カーテンの向こうでは、1日目の学園祭を終えた倭州大生が歩いて行く光景があった。ちょうど日曜日にあたる2日目に向けて、残って準備をするサークルや部活も多くあるのだろう。
僕は彼女の視線と同じ方を向きながら、「何?」と小さく呟いた。
「……今日の漫才って、どうだったんやろか。今までの中では、まだウケた方だと思う。でも、ちょっと欲張ったことを言うなら、もう少し面白くできたというか」
「せやね、僕も同じこと考えてた。漫才自体は充分楽しかったし、喋っている側としては面白かった。ただ、お客さんとの距離が少しあった気がする。物理的にじゃなくて、心の方の距離ね」
「内輪のネタって、親しい仲間同士でやるにはすごく楽しいわよね」
店の客が少なくなり余裕ができたと思われるママが、オープンキッチンの方から姿を現した。
「ママ!」
「でも、アオちゃんとカヤちゃんはたくさんの人に笑ってほしいんだよね」
僕とカヤは「はい」と頷いた。
「もちろん、方法はあるの。その日の共通の話題、例えば天気とか。今日なら、学園祭の話題。それこそ、あのトークショーとかも使えるし、アドリブも適度に入れてかないと。時事系は素人がやろうとすると、意外と難しいの。誰が言ってんだよ、ってツッコミは当然あるだろうし、何よりお客さんが『あるある!』と1ミリでも共感してくれないと、大変だから」
「本当に、漫才って奥が深いんですね」
「その通りよ。ネタの起承転結に関わるテーマ設定やオチもそうだし、伏線の絡みは適度にやると爽快になるし。2人の会話はめちゃくちゃ面白いと思うし、声の抑揚や大きさもそれなりに上手い。正直、あのM-1で1回戦突破した子たちよりも好きよ。だから、君たちの活躍がこれからも見られるなんて嬉しいな!」
「有難うございます」
「ところでママって、かなり漫才に詳しいんですね」
カヤの言葉を聞くと、ママは「ちょっと待って」と言って、奥の方から1枚の写真を取り出した。この写真は何処かの川の上で撮られたもので、2人の人物が映っているように見える。
「もしかして、写真を撮ったのはこの川の上……ですか?」
「うん、そうだよ。厳密には飛び石みたいなものがあって、石の上を渡れるようになっているの」
「あ、でも僕見たことある、ここは鴨川デルタだ」
ママは手でグッドを作りつつ、「さすがアオちゃん」と褒めてきた。
「なるほど、鴨川ね。たしかに、葵は京都人やもんね!」
「厳密には宇治の辺りだから少しずれるけど、何回か来たことあるなあ」
「これは祇園祭の日に京都へ行ったとき、鴨川でネタ合わせしたときに撮ってもらったのよ。この写真には私を含めた2人しか映ってないけど、写真を撮ってくれた子を合わせて、合計で3人ね」
写真を指さしながら、「これが私だよ」と説明するママ。きっと青春時代を思い出して、懐かしんでいるのだろうか。羨ましいけど、僕にもいつかそんな日が来るのだろうか。
「昔もママは可愛いですね、何だか素敵!」
「……ところで、ネタ合わせということは、まさかママは学生時代にお笑いを?」
「うん、そうだよ。途中から1人が大学を中退して居なくなって、2人だけになっちゃったけど。トリオからコンビに、だね」
僕とカヤは「ええええっ」と驚きながら、お互いを見つめ合い確認し合う。その後、2人揃ってママの方を眺める。
「えっ、何なに……そんな変な目で、見ないでよ」
「いやいや、この店、結構な頻度で通ってますけど、全然知らなかったです」
「なんで教えてくれなかったんですか、ずっと!」
ママは、初めにうふふと微笑を浮かべる。しかし、次第に大きな笑いになってお腹を押さえて声を上げていく。
「何言ってんの、アオちゃんとカヤちゃんを見ていると何だか懐かしくなってさ、まるで自分たちのことみたいに。2人にはいつも励まされてる。漫才もそうだけど、2人の何気ない日常会話にも。だから、君たちのことをずっと応援してる、これからも。卒業しても、たまにはこっちに遊びに来てよね。美味しいごはん、出してあげるから」
「有難うございます!」
「これからは、何を目標に頑張ろうかな」
「まずは尼崎の大会に出たらいいんじゃないかな、社会人1年目の夏に。2人はもちろんアマチュアだけど、いい思い出になるはずだよ」
「良いですね!」
次の目標もできたし、コンビも継続。もう充分すぎる。カヤのためにも、自分のためにも、そして僕たちを応援してくれる人のためにも、全力を尽くして頑張っていかないと。
あっ、何かを聞き忘れている気がする。
メニュー名の由来は聴いたから、あとはこの店の名前の由来。それと——。
「そういえばママ、この一緒に映ってる人って、今は何しているんですか?」
「その人はね、今は私の夫だよ」
「夫ということは……パパ?」
ママは「うん」と、満面の笑顔で頷いた。それでも僕の脳内は、完全に混乱しているところだ。状況が急展開すぎる。例えるならば、起承転転転転結くらいの勢いだ。どうやって結びを迎えればいいんだ、この物語は。
「そうそう、この後は久しぶりにあの3人で集まるのよ。店を貸切の形にしてさ。今日は、せっかく皆で集まれそうだからね。ねえ、漫才ガールズもこれから残ってくかい、時間はある?」
思わず僕はスマートフォンを確認する。時刻は18時を少し過ぎたあたりで、ファルコンズはビハインドをひっくり返して華麗にサヨナラ勝ちを決めたそうだ。幸い、この後の予定はなく、時間が無いこともなかった。
「あの……」
僕が返答の第一声を上げようとしたその瞬間。奥の方から、カランコロンと古めかしい音がする。
「ほら来たよ」
ママが扉の方を指差す。
「どうも!美穂さん」
そう言って、扉を開けたのは写真に映っていたパパらしき人だった。隣には、先ほどのトークショーにも居た、『深夜急行』の作者である真崎先生が現れた。カヤはキラキラとした両目で驚いているようだった。
「真崎先生!」
「こんにちは、さっき2冊買ってくれた子やね」
「はい」
「それは良かった。ということは、もう1冊はこの彼氏に……?」
パパ、ママ、そして真崎先生の視線が一斉に、僕へと襲いかかる。確かに僕はボーイッシュな雰囲気はあるし、そもそも一人称が僕だから仕方なくもないけど。
「えっ?」
「はい、そうなんです。私のダーリンです!」
カヤが僕をぎゅっと抱擁する。やめてくれ、とは言えないけど何なんだ、この安心感は。それでも、令和の大学生が相方のことをダーリンっていうのは、たいへん痛くないだろうか。
「よう、彼氏さんよ。一人の大切な人間を笑顔に出来なかったら、世界中の皆を笑わせるのは難しいよ。だからこそ、幸せにしろよ」
真崎先生が意味深な捨て台詞を吐いた。世界線が可笑しくなってきたので、そろそろ僕がツッコミに回らなければならない気もする。でも、今はそんな度胸がないから、とりあえずはカヤがより笑顔になる選択肢を選ぶことにする。
「お、おう……!」
「——例の福男くんは元気してる?」
ママがメニュー表を渡しながら、真崎先生とパパに尋ねる。
「もちろんよ、嫁さんと元気にやっとったわ、楽しそうで良かったよ。それじゃあ、俺はこの『とろとろチーズケーキ』と『100%さっぱりオレンジ』で。栄くんは何にする?」
「とりあえず、このサンドイッチ頼むよ」
パパはメニュー表の「わんぱく卵と仲良しハムのサンドイッチ」を指さしながら注文する。結局、パパもメニューを言うの、恥ずかしがっているじゃないか。
「あいよ」
「そうだ、注文待ってる間に久しぶりに漫才やろうよ、3人体制のネタ。せっかく2人のお客さんが居るんだからさ」
「いいねえ」
「いや、私が厨房に居たら漫才成り立たないでしょ、ツッコミ不在は新しすぎないかい?」
「じゃあ、出囃子流してよ。彼氏くん」
パパが自分のスマートフォンを僕に渡してくる。スマートフォンの画面には、音楽のサブスクリプション。出囃子の曲名は『20th century boy』。この曲名を日本語に訳した名前の映画なら、再放送で観たことがある。
「マイクとか要らないよね」
「要らないでしょ、そんなに広くない場所なんだから」
「何のネタするんだっけ」
「うっさいわ、私が適当に話題振るから、それでネタを判断してよ」
店の奥の方から、ネタ合わせをする3人の声がぼそぼそと聴こえてくる。僕の横では、カヤが「楽しみだね」とわくわくしながら彼女感を醸し出してくる。それは違うだろ。
「よし、準備が整いました!」
ママの声が店内に響く。僕はその声につられるようにして、出囃子の音を流す。最高に格好良いメロディラインのイントロが、10数秒ほど流れる。そして、歌いだしの歌詞が聴こえたあたりで、3人は僕たちの前へと入場したので、出囃子の音量をフェードアウトさせた。
「どうも、有悟です」
「栄二です」
「美穂です、3人揃って」
「――『祭のあと』です!」
【完】