エレベーターを使って地上に降りた僕たちは、近くを流れる住吉川(すみよしがわ)に沿う遊歩道にいた。
開野による「今日は少し歩きませんか……?」という提案を呑んだ形だ。
西からやってきた六甲ライナーが橋の北側で緩やかにカーブして、海側へと進んでいく。
僕たちも、六甲ライナーの高架と平行するようにして、南側へと進路を歩む。
市内でも屈指の清流である住吉川は、六甲山地に水源を持つ天井川でもある。
澄んだ水の上には、近隣のマンション群の姿が映し出されていた。
高崎先生の親が東灘区に住んでいた経験があるそうで「市街地なのに蛍が見られる時もあるんだよ」と高らかに自慢していたことは、よく覚えている。
この清流は複数回の水害を与えたが、灘五郷での酒づくりに役立っているという側面もあるらしい。
遊歩道をジョギングする男子学生とすれ違ったのは、1つめの橋である新反高橋を潜っているときだった。
開野が「金子くん」と、僕の名前を呟いた。
「——谷崎潤一郎って小説家、知ってる?」
「ああ、『細雪(ささめゆき)』を書いた人だっけ?」
「そうそう、谷崎が昔住んでいた家がここら辺にあるんだって」
僕が「高崎先生が言ってたの?」と尋ねると、「うん、そうだよ」と彼女は返した。
「よく、あの震災で生き残ったんだね」
「震災の少し前、六甲ライナーを作るときに移築したから損壊を免れたらしい。移築反対派との訴訟にもなったらしいよ」
「へえ、それは高崎先生から?」
「違うよ、先生の話を聞いたときに気になったから、私が調べたんだよ」
「凄いなあ……やっぱり、開野の好奇心には敵わないや」
「そうでしょ、私もそう思うよ。あはは」
他愛もない会話だったが、何となく彼女の負けず嫌いな一面は、ある意味で印象通りでもあった。
きっと開野は、褒めると育つタイプの人間なのだ、と心から思った。
住吉川の対岸に六甲ライナーの魚崎(うおざき)駅。
少し奥には、住吉川の頭上に阪神電車の魚崎駅が見えてきた。
「もう、1駅分歩いたんだなあ……」
開野は、対岸の方を指しながら「せっかくだから、六甲ライナー乗ろうよ。六甲アイランドだよ」とさらに提案してきた。
時刻は午後の2時半頃だった。
「——私たちは春から横浜に行くんだし、神戸にいるうちに乗っちゃおうよ、色々なところに行ってさ……プチ卒業旅行だね」
「開野、あと10日くらいで3月終わっちゃうけど、いいの?」
「うん」
「横浜で新居探したり、引っ越したりしないといけないから、あんまり日がないけど、大丈夫?」
「うん。それなら、今日ともう1日だけでいいから……」
僕が「その条件ならいいよ、今日ともう1日くらいなら空いてるだろうし」と返すと、彼女は喜んでいたようだった。
「どうしても新居が見つからなかったら、泊めてやるから。あはは」
「それはお断りしとくよ……何としても、物件は早めに決めるからな!」
五百崎橋で住吉川の上を渡り、僕たちは六甲ライナーの魚崎駅へと向かった。
改札を抜けて階段を上がると、フルスクリーンのホームドアに覆われたホームが目に入る。
海側よりやってきた車両から、同年代の若者らの群れが放出された。
六甲アイランド内の学校に通う学生だろうか。
今日は、部活なのだろうか。
魚崎で降りたということは、これから阪神電車に乗り換えるのだろうか。
そんな妄想を膨らませながら、2人で「マリンパーク」行きの到着を待っていた。
時刻表を眺めていると、日中は6分間隔の本数があることが分かった。
高架上のホームから景色を眺めていると、その程度の時間は一瞬で過ぎ去っていく。
遠方を眺めていた開野が、駅の接近放送に急かされるように「来たね、電車」と呟く。
4両編成の六甲ライナーが、海側へと走り出す。
無人運転だけに、自らの意思で車両が動いているような心地だった。
運転席が無いだけでなく、基本的に高架線を走るので眺望が優れている気がした。
そんな高い場所を通る六甲ライナーだが、阪神電車の高架を乗り越えた後は、さらに高い位置を通る阪神高速道路の下を潜っていったのだ。
交差する線の上を通ったり下を通ったり、本当に忙しいものだ。
高崎先生曰く、六甲ライナーと並行する住吉川も、こういった上下関係に癖があるらしい。
阪神間の鉄道路線は、北側から阪急・JR・瑞急・阪神の順に4路線が凌ぎを削っている。
この4路線が住吉川を渡る際、JRのみ住吉川の地下を潜るらしい。
ペンローズの階段のように、目の錯覚が発生してしまいそうだ。
南魚崎駅を過ぎて住吉浜を経由すると、いよいよ六甲大橋を渡る。
開野は、青空の下で神戸港を越えていく景色を、ちょうど写真に収めているようだった。
僕が「良い写真撮れた?」と尋ねると、笑顔で「また後で送るから、後で連絡先教えてね」と答えた。
車窓には、神戸の街よりも多くの緑色が移っていた。
公園や広場がちらちらと視界に映る。
ただ、遠くを見てみると、緑色の多い居住地域は島中央の範囲の中だけで、海側には倉庫や工場が見えていた。
大阪湾にぽつんと浮かぶ箱庭のように、癒される景色だった。
彼女の提案により、終点の1つ手前にあるアイランドセンター駅で下車することになった。
どうやら駅名の響きが好きだから、という話らしい。
六甲島中央駅で良いじゃないか……とも一瞬考えたりもした。
しかし、後で調べると乗車人員が少し多い駅らしく、六甲アイランド内では中心のような地域だと分かった。
改札を出て地上に立つと、異国のような景色が見えた。
開野は、あらゆる方向の様子を見てスマートフォンを構えていた。
ファッション美術館もあれば、プールもある。
大きな緑地に、ショッピングモール、噴水、学校。
神戸にハーバーランド以外でこんな楽園があるんだ……と感心するばかりだった。
でも、休日のハーバーランドの騒がしさとは異なり、人が少ない平日の昼間の六甲アイランドは心地良く思えた。
初めのうちは、景色を撮影する開野の歩幅に合わせてゆっくりと歩いていた。
ただ、彼女が写真を撮る様子に釣られて、次第に僕もスマートフォンを構えるようになった。
チューリップ畑を備えたイベント広場を経由して、東西を貫く通りへと足を進める。
その道中で何枚もの写真を撮ったのだろう。
南国のような景色を観て、暖かい春の訪れを味わっていた。
向洋西公園の手前にある交差点は、やはり規模の割に車の量が少ない。
車線の広い道路を自動車が、時々駆け抜けていく。
「ここって、何かの曲のPVに使われてそうだね」
「違うよ、映画かドラマだよ。ところで、どんな曲聴いてたの?」
公園と学校の脇を通りながら、趣味談義に花を咲かせる。
受験勉強のときに、同じ歌手の曲をよく聴いていたこと。
詩が良いよね、リズムが良いよね、と好きな曲を布教し合う。
彼女はハミングをしながら、軽快にスキップを始めていた。
「一緒に歌おうよ、ふんふふん、って」
開野からの誘いには恥じらいが勝ったのか、「公共の場所なので……」と謎の言い訳をして断った。
次の交差点の向こうに細長い公園があり、突き当たりには飲料系の工場が見える。
緑のエリアも、歩いてきた道もここで突き当たりだとわかり、彼女のフィーリングで左折を選ぶことになった。
高さの異なるヤシが両脇に聳え立つ、細長い公園を南へ進み、今度はハワイ気分を満喫する。
続いて、六甲ライナーの車庫を越える歩道橋を経由し、野鳥園の前を通り過ぎた。
六甲ライナーの行先だった「マリンパーク」の名が見えたのは、南側に大阪湾を捉えられたときだった。
海側を眺める展望スペースで「疲れたね」と言いながら、スマートフォンで連絡先を交換した。
「——金子くん、また1駅分歩いてしまったね」
「そうだね、若いって良いなあ……お互い、まだ18だもんね。高校を卒業してさ」
すると開野は、「ごめんね……」と小さな声で囁いた。
僕は、「どうしたの?」と優しく問いかける。
「騙しているようならごめんだけど、私は浪人生だったの。1浪だから、年齢は19」
「騙されてなんかいないよ、ただ知らなかっただけで」
「私、金子くんが学校のある日は基本的に先に来てたでしょう?」
「うん」
「あれは、学校に通ってないから。私は2年目の受験勉強を、あの塾だけでやってきたから……私はあんな性格だから、上手く気持ちが切り替えられなくて伝えられなくて……だから、高校3年のときにすごく友達関係に悩んだの。もちろん、受験勉強もしないといけないし、精神的にもつらいし……少しずつ学校にも行けなくなって……だから、高崎先生にはお世話になって……だから……」
涙を流していた彼女の手が手すりから離れ、身体が少しずつ落ちていく。
慌てて僕は両手で、震えていた身体を受け止める。
彼女の「刑期」は、2年間だったのだ。
「でも、開野のおかげで乗り越えられてきたんだよ」
彼女は「えっ」と小さく呟きながら、僕の方を見上げた。
「1年でこれだけ大変だったから、2年も頑張った開野はもっと凄いよ。偉いよ。きっと、自分が孤独でしんどい思いをしていたから、前期入試の後も一緒に自習室で勉強してくれたんでしょう?」
「うん……」
「だから、僕たちは戦ってこられたんだよ。ありがとう自習仲間、開野襟紗!」
「金子くん……」
開野から精一杯の抱擁を交わされる。
塾のエレベーター前では聴こえなかった彼女の心臓の音が、強く感じられた気がした。
今日はかなり歩いてきたからか、汗の香りもする。
あらゆる五感が、開野で埋め尽くされていく。
鼓動が少しずつ落ち着いてくると、彼女は目を合わせるようにして言葉を告げる。
「——これからも、私の傍にいてください。それだけでいいの」
山あり谷ありの人生。
先のことばかり考えてられないけど。
あれだけ修行したのだから、お互いに少しくらい報われてもいいはずだ。
六甲アイランドは、まもなく夕方を迎えようとしている。
雲一つない青空もやがて、赤く微笑んでいく。
【完】